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花粉症で引退した男、田淵幸一さんに聞く“鼻水との長い戦い”

文春野球コラム オープン戦2020

2020/03/05
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 プロ野球オープン戦たけなわの今日この頃だが、ご存じの通り3月15日までの残り全試合が無観客で行われるなど、新型コロナウイルス感染拡大の影響は球界にも広がっている。いったいシーズンはどうなるのか……とファンにしたら気が気ではないが、ここにもひとり、新型コロナウイルスが及ぼしたある事態に気を揉む偉大な球人がいる。1月にエキスパート表彰で野球殿堂入りを果たした、通算474本塁打の田淵幸一さんである。

「何せマスクが見つからないんだよ。どこの薬局に行っても全然売っていない。新型コロナも大変だけどさ、この時期(2月半ば)にマスクがないのは花粉症の身にとっては本当に辛いのよ」

 実は田淵さんは約40年来の花粉症患者である。筆者が子供の頃の昭和50年代末期、西武の主砲だった田淵さんが春先になると花粉症に悩まされるという話を知り、子供ながらに「そんな不思議な病気があるのか!」と驚いた。同じように田淵さんがきっかけで「花粉症」のワードが脳裏に刻み込まれた人は結構多いはずだ。今や日本人の4人に1人が患っていると言われる国民病で、毎年2月から4月までテレビの天気予報と共に花粉情報が流れるほど春先の風物詩となった花粉症だけど、その当時患っていた人は少なかった。その一人が田淵さんだったのだ。

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約40年来の花粉症患者である田淵幸一さん ©文藝春秋

田淵さんの花粉症発症の瞬間

「あれは忘れもしない昭和57年2月の高知・春野のキャンプ。ある時、熱はないのに鼻水が止まらなくて、頭がやたらとボーッとする日が何日も続いたわけ。変な風邪だなあ、おかしいなあと思っていたんだけど、その年は新しく広岡(達朗)監督になったばかりで、練習を休むと1日1万円の罰金を払わないといけない。だから無理して練習に出ていたんだけど、もう限界ってことで3日くらい休ませてもらったんだ。宿舎で横になっている時はいいけど、立ち上がると鼻水がダーッと垂れてくる。もう1日中その繰り返しで、今でも2月になると当時のイヤな思い出が蘇ってくるよ。広岡さんは広岡さんで“自己管理がなっとらん!”的なことを新聞記者に話すしね(笑)」

 前年まで指名打者専門だった田淵さんはその年、広岡新監督の「田淵も一塁を守るように」との命により張り切っていた。2月6日のスポーツニッポン一面には【ホント!? 「名一塁田淵」広岡監督絶賛】の見出しとともに、プロ入り14年目にして初めて一塁手として特守を受けた旨の記事が載っている。前年のキャンプでは練習時間1日2時間半、食事は焼肉モリモリ、体重は96キロ。休日はゴロ寝か外出、グローブは1個だけ持参していた。ところがその年は心機一転、毎日4時間半の猛練習、食事は玄米を中心とした自然食。体重は88キロまで絞り、休日はビデオで相手投手の研究。ファーストミットは実に4個も用意する気合いの入れようだったのだ。

 しかしスポニチによると21日の練習で前日からの風邪が悪化し、翌22日から3日間完全休養。25日の同紙には
“熱はないし鼻カゼ程度。疲れのためか回復力が弱っているので休ませた方が――と報告した”(辻野トレーナー)
“ヤル気になったらやれないことはないが大事を取って休ませてもらった。明日は何が何でも出ます”(田淵さん)というコメントが載っている。これが田淵さんの花粉症発症の瞬間である。

 さらに同じ2月25日のサンケイスポーツは【田淵もカゼダウン】【広岡監督大誤算】の見出しと共に辛そうに鼻をすする田淵さんの姿が一面を飾っている。記事中では田淵さんの症状は「鼻カゼ」と表現されているが、当の本人は普通の風邪とは明らかに違う症状に苦しみを味わっていたのである。

「それで病院に行ったら、季節性アレルギー性鼻炎、つまり花粉症だって言うんだよ。初めて聞いた病名だから“何それ?”って感じだよね。でも検査してみると間違いなくスギ花粉アレルギーだと。しかし原因がわかったところで目はショボショボするし鼻水は垂れるから、錠剤や目薬で何とか抑えるしかないわけ。だからオレは七つ道具を肌身離さず持っていたんだ。目薬数種類と点鼻薬、ティッシュにマスク……。さすがにプレー中にマスクはできないけど、目薬は常にユニフォームのポケットに入れていたよ。で、ベンチにいる間はずっとティッシュで鼻をかみっぱなし。何せティッシュを1日1箱、2箱と平気で使っちゃうんだから。あれは辛かったなあ」

「今でも2月になると当時のイヤな思い出が蘇ってくるよ」 ©文藝春秋

“ああ、これはもう今年いっぱいだな”

 当時花粉症が珍しい疾患だったことや、田淵さんのキャラクターも相まって、4コマ漫画で花粉症をネタにされたり、週刊誌やスポーツ紙に奇病扱いされて面白おかしく書かれたこともある。そういう周囲の理解のなさに腹が立ったことはないのだろうか。

「まあ、あの頃は他にもいろいろ書かれたし、スポーツ新聞は何かというとオレと広岡さんの仲を書き立てていたから……。今は広岡さんとは仲良いんだよ。毎年2月9日の広岡さんの誕生日にはちゃんと“おめでとうございます”と電話するくらいにね(笑)。でも思えば、オレが昭和59年に引退を決めたのは花粉症が原因よ。特にあの年はキャンプ中から症状がひどかった。開幕して5月頃になっても治まらなくて、次第に闘争心もなくなって“ああ、これはもう今年いっぱいだな”と」

「オレが昭和59年に引退を決めたのは花粉症が原因よ」 ©文藝春秋

 前年、昭和58年は夏場に死球で離脱するまでホームラン王争いのトップを独走し、打率.293、30本塁打をマーク。巨人との日本シリーズでも優秀選手賞を獲得した田淵さんだが、翌59年は開幕から不調に陥っていた。ちょうどその頃、週刊文春の昭和59年4月12日号で田淵さんは花粉症についてこう話しているのだ。

“いやー、はな水が自然に出て、鼻がむずがゆくて、むずがゆくて……。水っけの多いはな水で、ひとりでに出てくるんです。何かを見ても、焦点が定まらなくて、ボケーッとしているんです。かすんでいる感じですね。本当に往生していますわ”

“ものを食べてもおいしくないし、においもまったくわからない。味が消されているんですから、食べてもおいしくないはずですよ。(中略)打撲とか外傷の方が気が楽ですよ。時間がたてば完治するんですからね。こういうのが一番タチが悪い。風邪だって、摂生すればある程度は防げるでしょう。しかしこればっかりは、いくら摂生してもどうしようもない。誰のせいでもないから、誰にあたることもできない。これはつらいんですよね”

“こんな気持で開幕を迎えたのは、十六年の選手生活で初めてですよ。集中力がまったくなくなり、気持がのんべんだらりとする。もう、選手にとって大敵ですよ(クシュン)”

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