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清原が桑田の部屋を訪ねた夜

 だが、やっぱり29歳の岸和田出身の青年が死にたいくらいに憧れたのは、海の向こうではなく花の都大東京だった。96年オフ、清原は10年越しの夢を叶え巨人へFA移籍。97年4月6日、桑田の661日ぶりの復帰登板で一塁を守っていたのは背番号5の清原だ。“巨人の清原”は移籍後初アーチを放ち、6回1失点の桑田とともにお立ち台に上がる。今振り返れば、90年代のKKコンビのハイライトはこの試合だったように思う。当時、すでにプロ野球界は新章へと突入していたのだ。KKコンビに代わる新たなる主役、「イチローと松井秀喜」の時代である。

巨人のユニホームを纏った“KKコンビ” ©共同通信社

 清原の自伝『男道』の中で印象深い記述がある。2001年7月18日の甲子園での阪神戦、先発した桑田は自軍のリードを守りきれず滅多打ちを食らいKO。全盛期とは程遠い姿に妙な胸騒ぎを感じた清原は、宿舎に戻ると桑田の部屋を訪ねる。ユニフォームの前をはだけたまま放心状態で自室のベッドに座り込んでいる背番号18。こいつやめる気やな、そう察した同級生は「お前がやめるときは俺が打席に立つ。それでお前の球があかんかったら、俺が言うたる。そんな格好しとらんで、はよ風呂入れ」と声をかけるわけだ。変わりそうで変わらない、ギリギリ野球が繋ぎ止めていた関係性。その後の清原を襲う厳しい現実や両者の距離感を知りつつ読むと、ちょっと泣けてくる。

 30数年前、高校1年の夏の甲子園で、日本中から注目された15歳のふたりは試合前に蝉をとりに行ったという。男にとって、10代中盤から後半の金も経験もない恐ろしく無力な時代を共有した仲間は特別だ。ある意味、綺麗なおネエちゃんとの思い出よりも大事なものだと思う。15歳の頃から日本中の注目を浴び続ける重圧をいつだってワリカンしてきた。清原がひとりなら、もしくは桑田ひとりなら、高校球界のスター選手になっても伝説にはならなかっただろう。KKコンビはふたりでひとつだった。なにもまた一緒に蝉とりに行けなんて言うつもりはない。今なら、蝉とり以外にも彼らがあの頃の関係性に戻れるきっかけがある気がする。それは、野球である。なぜなら、KKコンビを引き合わせたのは「巨人」ではなく、「野球」だったからだ。

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 毎年、甲子園の季節がやってくると彼らのことを思い出す。2017年、桑田真澄と清原和博は49歳の夏を迎えている。

 See you baseball freak……

(参考文献)
『男道』(清原和博/幻冬舎)
『Gファイル 長嶋茂雄と黒衣の参謀』(武田頼政/文藝春秋)
『さらばサムライ野球』(ウォーレン・クロマティ/ロバート・ホワイティング共著/松井みどり訳/講談社)

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