狭いベランダに無理矢理、小さなサイドテーブルを出して小説を書いていると、家の中のパソコンが鳴り、メールが届いた。
クリックして開くと、仕事のメールだった。そこには、東京の緊急事態宣言が解除される見通しです、と書いてあった。5月25日の14時50分のメールだった。
そうなのか、と思いながら、夕方まで小説を書き、暗くなって原稿が見えなくなると、部屋に入って晩御飯を食べた。コンビニで買った、レンジで温めるもち麦ごはん(うるち米と、もち麦が混ざったもの)と、冷凍食品のおかず(甘辛だれの牛ホルモン焼)を食べる。自粛生活が始まってから、この組み合わせの食事をもう30回くらい食べている気がする。新型コロナより先に酷すぎる食生活で倒れるのではないかと思い始めたところだった。
今、一番行きたいところは人間ドックだ。自粛生活で、筋肉は落ち、栄養は偏り、血液はドロドロになっていると思う。元から運動不足だったが、全身がいっそうひどい状態に作り替えられたような気がしてこわい。アップルウォッチが、私の運動不足に毎日絶望している。
緊急事態宣言は本当に解除された。「東京都ロードマップ」というもののニュースを見た。3つのステップに分けることや、今はステップ1で、午後10時までの飲食店の営業、博物館や図書館が緩和されるということが説明されていた。
このまま家に籠っていたほうがいいのか、少しは外に出て経済に貢献したほうがいいのか、どちらが「いいこと」なのかますますわからなくなった。いろいろ調べたりニュースを聞いたりしてみたが、これからの自分の行動の根拠をスッキリする形で獲得することはできなかった。そんなものはきっと元からこの世にないのだとも思う。コロナ禍になってからは特に、いくら調べてもよくわからないまま行動を選択する、ということを繰り返している感覚がある。日本の感染者数が比較的少ない理由はよくわからないらしく、ある記事によると「ファクターX」があるのでは、とのことだった。もし抗体検査を東京の人全員がしてみたら、一体どういう結果になるのだろう。想像もつかない。今、自分たちがどういう状態なのかわからないまま、世の中がまわりはじめる。そのことになかなか気持ちがついていけない。
翌日は、珍しく外で用事があった。こんなことは何日ぶりだろう。久しぶりにお化粧をした。マスクをしてから、口紅は意味がなかったと気が付いた。目的地までのルートを調べると1時間半くらいだったので、歩くと決めた。
雨の中、久しぶりに家のまわりより少し遠くへ向かって歩き続けた。アップルウォッチが何度も振動し、「やりましたね!」「素晴らしい!」と私をけなげに褒めてくれる。判断の基準がスッキリと整理されているアップルウォッチが、今は羨ましく思えた。
※こちらのコラムは南ドイツ新聞に寄稿したものです。
村田沙耶香
小説家。1979年、千葉県生まれ。玉川大学文学部卒業。2003年「授乳」が第46回群像新人文学賞優秀作となりデビュー。09年『ギンイロノウタ』で第31回野間文芸新人賞受賞。13年『しろいろの街の、その骨の体温の』で第26回三島由紀夫賞受賞。16年『コンビニ人間』で第155回芥川龍之介賞受賞。著書に『マウス』『星が吸う水』『タダイマトビラ』『殺人出産』『消滅世界』『生命式』などがある。