アラン・ケイ(アップル元フェロー) ©共同通信社

 1992年から93年にかけて、筆者は日経産業新聞で「アップルコンピュータの研究」という連載記事を執筆した。25年前のアップルは、創業者のスティーブ・ジョブズを放逐し、食品大手のペプシコからやって来たジョン・スカリーがCEO(最高経営責任者)を務めていた。

 経営陣に会うため、何度も米カリフォルニア州の本社を訪れた。そこで生え抜き役員に言われた。

「アップルを理解したいなら、ケイに会うべきだね」

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 アラン・ケイ。「パソコンの父」と呼ばれ、当時はアップルのフェロー(名誉顧問)をしていた。伝説のエンジニアである。

 件(くだん)の役員の紹介で、シリコンバレーにあるケイのラボ(研究室)を訪ねた。案内された部屋に入ると、巨大なガラス窓で仕切られた壁の向こうに赤ちゃんが数人いて、床には乱雑にパソコンが放り出してあった。

 ケイは私に気づくと、シーッと人差し指を唇に当て、赤ちゃんを見るよう促した。パソコンの画面が幾何学模様や簡単なアニメーションを映し出すと、赤ちゃんはハイハイでそちらに寄っていく。そして、画像が表示されているモニター画面をペタペタと触り始めた。

「見てごらん、どの子もキーボードやマウスには触らないだろ。あれがコンピューターのあるべきインターフェースなんだ」

 それから四半世紀。今、私たちはケイが言った通り、画面をペタペタ触っている。アップルが「世界を変えた」と言われるスマホの「iPhone」やタブレットの「iPad」にはキーボードもマウスもない。

 ケイの逸話で最も有名なのは、「パソコンの原型」と言われる「アルト」を作ったことだろう。

 当時、コンピューターといえばオフィスの1部屋を占拠するような高価で巨大な大型汎用機を指した。人々はそれをオフィスの一角に祭り、仕えた。ケイは逆のことを考えた。人が機械に仕えるのではなく、コンピューターが人を助けるべきではないのか。

 ユタ大学の大学院生として国防総省高等研究計画局(ARPA)のプロジェクトに参加していたケイは、革新的なビジョンにたどり着く。「コンピューターの部品は全てディスプレーのサイズに収まり1000ドルで買えるようになる。それは人間を支配するのではなく、人間の知的活動を支援するパーソナルなメディアだ」

 ケイはそのビジョンを基に、ゼロックスのパロ・アルト研究所(PARC)に入所後の73年、アルトを作った。記憶装置を備えたパソコン本体、ブラウン管のディスプレー、キーボード、そしてパソコン同士でデータをやり取りするための通信機能。アルトは現在のパソコンが持つ基本的な要件を全て兼ね備えたマシンだった。ケイはそれを機械ではなく「メディア」と呼んだ。

「アルト」の公開は多くの人々に衝撃を与えた。だがゼロックスはケイのコンセプトを十分に理解できず、事業化を見送った。そのアルトから強烈なインパクトを受けたのが、アップル創業前のジョブズだった。

 アルトを見て「パソコンの時代」を確信したジョブズは、親友の天才技術者、スティーブ・ウォズニアックを急き立て、アルトと同じコンセプトのマシンを作らせた。それがパソコンの名機「リサ」と「マッキントッシュ(略称マック)」だ。アルトなしではマックは生まれなかった。

 PARCを辞めたケイはゲーム会社のアタリなどを経て、84年にアップルのフェローになった。

 人間の知的活動を支援する道具。ケイはそれを「ダイナミックな本」すなわち「ダイナブック」と呼んだ。コンピューターに関わる全ての人々が目指すべき究極のコンピューターを意味する。ところが89年、日本の東芝が自社のノートパソコンを「ダイナブック」と名付けて売り出した。米国では商標登録を認められなかったが、日本では今でも「ダイナブック」は東芝製のノートパソコンとして知られている。当時、米国のコンピューター業界の人々は大いに鼻白んだ。「あんなものは断じてダイナブックではない」。

 最後にケイの名言を紹介しておこう。

「未来を予測する最良の方法は、それを発明してしまうことである」

 モノマネをイノベーションとは呼ばないのである。