売上高約十六兆円(二〇一五年十二月期)。台湾に本社、中国に生産拠点を置く世界最大のEMS(電子機器の受託生産サービス)、鴻海(ホンハイ)精密工業を一代で築き上げた。二〇一六年二月にシャープを事実上買収して、日本でも知名度が上がった。
ソニーやパナソニックなど日本の電機大手からゲーム機やテレビの生産を受託して成長。近年は、米アップルのスマートフォン「アイフォーン」の生産で飛躍した。
深セン(土へんに「川」)を中心とする中国の巨大工場で働く従業員の数は、百万人に迫る。中国最大級の雇用主で、中国共産党総書記の習近平とも近しい。
英語名はテリー・ゴウ。一九七四年、二十四歳の時、現在の鴻海精密工業の前身となる鴻海プラスチック企業有限公司を設立した。
シャープ買収劇では、豪腕ぶりが注目され「野蛮な来訪者」の印象を与えた。しかし、その素顔はあまり伝わってこない。
長男の郭守正(英語名、ジェフ・ゴウ)が日本の友人に語った、こんなエピソードがある。
「その程度で忙しいなどと言うな。男は血の小便が出るまで働いて一人前だ」
ベンチャー投資家として忙しい毎日を送る息子を、父は常々、こう言って叱咤するという。「一日十六時間、三百六十五日働く」と言われる郭らしいお説教だが、この話には続きがある。
「俺が師と仰ぐ日本人は、本当に血の小便をしながら仕事をしたんだ」。その人物とは、シャープ元副社長、佐々木正のことだった。
「日本の電子工学の父」と呼ばれる佐々木は、現在パソコンやスマートフォンで使われているMOS(金属酸化膜半導体)を初めて電卓に採用した技術者である。
MOSの量産は難航を極め、佐々木は血尿が出るところまで追い込まれた。だが、真っ赤に染まった便器を見た瞬間、佐々木は「ここまでやったんだから、ダメでも悔いはない」と開き直る。そこから電卓戦争におけるシャープの快進撃が始まった。
「郭会長は日本の電機大手に憧れており、創業者、早川徳次が存命の時代から知っているシャープが手に入る可能性があると知った瞬間から、何が何でも手に入れたい、と渇望していた」(ホンハイ幹部)
二〇一二年から翌年にかけての第一次出資交渉が迷走したのは、その思いが強すぎたためでもあった。郭は資金難に陥っていたシャープの堺工場に個人で六百六十億円を出資した。赤字の堺工場を連結対象から切り離すことで、シャープは危機を乗り切った。郭はシャープ本体への出資を望んでいたが、危機が喉元を過ぎたシャープは態度を変え、のらりくらりと交渉を引き延ばした。業を煮やした郭は、交渉の席で水の入ったペットボトルを投げつけた。
「あんな野蛮人と組めるはずがない」。郭の剣幕に恐れをなしたシャープの経営陣は、ますます態度を硬化させた。郭は「独裁為公(公の為に独裁する)」と言って憚らないワンマン経営者。だが、それだけでアップルなど世界の大企業と渡り合っているわけではない。
「シャープはいずれ再び危機を迎える」と読んだ郭は、ある人物の元に通うようになった。シャープのメーンバンク、みずほ銀行の佐藤康博頭取(当時)である。郭は佐藤に会うたびに「私ならこうする」と自らのシャープ再建プランをささやき続けた。
二〇一六年になると、シャープは再び経営危機を迎えた。再建のスポンサー選びは当初、産業革新機構が有利と見られたが、土俵際でホンハイが逆転した。決め手は、みずほ銀行の意見だった。
シャープへの出資を完了したホンハイは、シャープの前経営陣がリストラのために売却を決めていた大阪・西田辺にある旧本社の一部を買い戻した。この土地は関東大震災で事業と家族を失った早川徳次が再起した場所であり、敷地内には徳次の自宅もあった。シャープ創業の地を買い戻すことで、徳次への畏敬の念が口先でないことを証明した。
疑心暗鬼になっていたシャープ社員の中に「ホンハイ傘下でも頑張れるのではないか」という機運が生まれている。稀代の「人たらし」であることは間違いない。
アップルが自動運転車への野心をのぞかせる中、「ホンハイがリンゴマークの車を生産するのでは」との憶測も流れる。独裁者の野望に果てはない。