「もうここでいいですか、はい、降りてください」
さっきまで大通りを走っていたはずの白髪混じりの男性ドライバーが、脇道に入って数分のところで突然車を停めてしまいました。仕事で終電を逃した私が一人でこのタクシーに乗り込んだのは、たしか深夜1時ごろのこと。
ただ私を困らせようとしているだけに思える対応
「すみません、○○ホテルまでお願いします」とシートベルトを締める私を一瞥したドライバーの顔は、どこか不機嫌に見えました。出張先で土地勘がないため地図アプリを立ち上げると、目的地までは車で10分かかるかどうか。
はいはい、と面倒臭そうに車を発進させたドライバーに「住所、お伝えした方がいいですか」と話しかけると、「いや、道路の名前で言ってもらわないと分かんないよ」と鼻で笑われてしまいました。
「あれ、もしかして行き先がわからないまま走っているのか」と思って窓の外を見ると、タクシーはまるで躊躇する様子もないスピードで夜の街を駆け抜けていきます。私は焦って、すぐに現在地からホテルまでの経路を調べなおし、信号待ちのタイミングで、ドライバーにスマートフォンの画面を見せようとしました。
「ごめんなさい、私はここらへんの土地勘がないので今アプリで調べましたけど、○○線だと思います」
しかしドライバーはスマートフォンの画面を見ることもなく、また面倒臭そうに「いや、わかんないよ。目的地、何だって? 近くに何がある? どこ曲がればいいか言って、ホラ」と矢継ぎ早に言う彼は、ホテルへの行き方を明確にしたいのではなく、ただ私を困らせようとしているだけに思えました。
「もうここでいいですか、降りてください」
さすがに腹が立ちましたが、車内には私とドライバーの男性の2人しかおらず、あたりは暗くて人通りも少ないため、何かあってもすぐに助けを呼ぶことが難しい状況です。過去にどこかで見た、タクシー運転手が乗客の女性を襲った事件のニュースが脳裏をよぎり、思わず出かかった抗議の言葉を飲み込むしかありませんでした。
「とにかく穏便に済ませたい」と思い、アプリを使いながらドライバーの質問に答えていると、車は大通りからわざわざ脇道に入り、街灯の少ない暗い場所まで来たところで停車しました。
「もうここでいいですか、降りてください」
支払いを現金で済ませ、タクシーが走り去る低い音を背に凍える手で現在地を検索すると、ここからホテルまでは歩いて20分ほど。一刻も早く明るい大通りに面した場所に出たくて、大きな荷物を揺らしながら走って走って、ホテルに着くころにはもう、深夜2時を迎えようとしていました。