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「時代が求める“高嶺の花”を演じるべきだったけど……」君島十和子が語る、所在なかった20代の頃

彼女がそこにいる理由——ジェーン・スー #1

source : 週刊文春WOMAN 2019GW号

genre : エンタメ, 芸能, ライフスタイル, テレビ・ラジオ

 表参道に面して建つメタリックなビル。ここに君島十和子のオフィスがある。真っ白な扉を開くと大きな熊手が目に入った。どこのものだろう。

「これは(新宿の)花園神社なんです」

 十和子が柔らかい笑顔で答えた。長い髪はハーフアップにまとめられ、ヒナゲシのような朱赤のリブセーターがよく似合っている。

 商人には馴染みの深い酉の市。11月になると神社仏閣へ参拝し、商売繁盛と家内安全を祈り熊手を買い求める。商売が大きくなるように、毎年少しずつ大きくするのが流儀だ。(全2回の1回目/後編に続く)

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世界に誇るメゾンの御曹司と、金屏風の前で婚約会見

 1980年以前に生まれた女なら、君島十和子のことは少なからず知っている。美容家として認識する人もいれば、90年代半ばの喧騒で記憶が止まっている人もいるだろう。

吉川十和子だった頃 ©️共同通信社

「神様にお願いするとか、宗教に関心がある環境で育ったわけではないんです。でも、長く人生を重ねていると、もう人の努力だけではどうにもならないことって本当にあるなって」

 1995年12月。女優の吉川十和子はファッションデザイナー君島一郎氏の息子である君島明氏(のちに改名し君島誉幸)と金屏風の前で会見を行い、世界に誇るメゾンの御曹司と美人女優の婚約は大々的に報道された。

「一緒に人生を生きていくと決めたのだから、一番の味方であり同志であるということは、忘れないでいようと思います」

 大勢の芸能記者を前に、29歳の十和子は控えめな笑顔で語った。彼女にとっては事実上の引退会見でもあった。

 私には、そのあとのことが強く記憶に残っている。のちに十和子は自著で「母が庭で洗濯物を干していると近所の人から『娘さんをあんな家に嫁がせてはダメ』って言われるような、日本中誰一人賛成してくれない結婚だった」(『十和子道』)と記した。

連日ワイドショーを賑わせた、君島家の複雑な家庭事情

 君島誉幸氏の複雑な家庭環境について報道されたのは、婚約会見の数日後。両家の親や十和子の所属事務所社長を巻き込んだ壮絶な応酬が連日ワイドショーを賑わせたが、彼らは周囲の騒音をよそに約二週間後に入籍する。

最新号の『週刊文春WOMAN vol.6 (2020夏号) 』

 入籍の7か月後には義父の君島一郎氏が急逝。まもなく、正妻の息子と誉幸氏の対立が取りざたされた。

「KIMIJIMAはパリコレに何度も出たことがある上流階級や皇室の御用達ブランドだ」、「吉川十和子は玉の輿に乗った」。そう持ち上げていた人々が、手のひらを返しねっとりと二人の凋落を待ち望む。誰もがすぐ離婚すると信じて疑わない結婚だった。

 大方の予想に反し、幸せな結婚は現在も続いている。十和子の名を冠したコスメブランドは今年で創立15年。社長は誉幸氏。十和子は商品開発担当のクリエイティブディレクターであり、メディアでは広報的な役割も務める。

 JALのキャンペーンガールに選ばれた時、十和子は19歳だった。あの頃から雑誌や画面越しに見ているが、彼女の美は常に更新されている。ゴージャス一辺倒だった時代とは違い、現在の十和子からは茶目っ気すら感じる。