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 翌86年、開幕一軍入りした山崎は阪神との開幕シリーズでいきなり男を上げる。2戦目、代打からレフトの守備につくと阪神・岡田の打球を追いフェンス激突のダイビングキャッチ。さらには9回、先頭で二塁打を放ちサヨナラのホームイン。初のヒーローインタビューを照れくさそうに受ける山崎の姿を見てすっかりファンになった筆者は、マリンブルーのメガホンにスーパーカートリオや遠藤、斉藤らの背番号シールに加え59番を貼り付けた。

 それでも山崎はブレイクできず、87年は42試合出場で打率.197。翌88年も開幕一軍を逃し、4月末にようやく一軍に合流するも直後に首脳陣から「これがスタメン最後のチャンスだ」と告げられるほどギリギリの状況にあった。そして迎えた5月20日の阪神戦、2-5とリードされた7回裏、一死満塁で打席に立った根性の男は起死回生の逆転満塁弾を放つ。翌日からパチョレックに替わり5番に入ると6試合で21打数10安打。ラストチャンスでついにレギュラーの座を掴むのだ。6月以降死球の影響で離脱するも、この年の打率.297。代名詞のこけしバットはますます存在感を増していく。

1988年5月19日、山崎賢一が逆転満塁弾を放った翌日の朝日新聞。努力と根性の男ブレイクの瞬間だった。

「努力、根性」がモットーの頑張り屋が最も輝いた瞬間

 翌89年、チームは開幕から低迷する。前年活躍した高橋雅や高木豊、ポンセやパチョレックまで低打率にあえぐ中、3番や5番、6番を打つ山崎はひとり奮闘し、打率3割をキープする。そして3割6分台に到達した7月8日の巨人戦、ついに4番に座るのだ。どう見てもタイプじゃないが本来の4番ポンセは眼鏡をかけても不振続きだから仕方ない。いわば代役の4番打者だが、山崎はなおも好調をキープ。ついにはオールスターにも監督推薦され、後半戦は調子を崩したものの.309、7本塁打、56打点に17盗塁をマーク。首位から36.5ゲーム差の最下位に沈んだ大洋から、唯一ベストナインとゴールデングラブ賞に選出された。ファームで4年間、2割ギリギリしか打てなかった男が最も輝いた瞬間だった。

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月刊ホエールズ1989年6月号で初の単独表紙を飾った山崎賢一。「4番 レフト 山崎」は今なお語り継がれるこの時代の大洋のトピックス。

 翌90年は背番号2となり2年連続でゴールデングラブ賞を獲得するが、91年以降成績は低迷する。そして93年オフ、ベイスターズ初年度も不調に終わった山崎はあの大量解雇事件でついにチームを離れることとなってしまう。今思えばスターの証である背番号2も、ベイスターズのユニフォームも山崎には似合わなかった。いつ見ても泥にまみれていた横浜大洋の59番。あの姿が何よりも格好良かったのだ。

 翌年福岡ダイエーホークスに拾われた山崎は、かつてモットーとした「努力、根性」を思い出したかのように燃えていた。94年5月31日、仙台宮城球場でのロッテ戦。1点ビハインドの9回表に満塁の場面に代打で登場した山崎は見事逆転の3点タイムリー二塁打を放つ。プロ野球ニュースに映し出されたその気迫の表情はかつての山崎そのものだった。引退後は長らくホークスのスカウトを務め、たまに新入団選手の会見に同席する山崎賢一。58歳となり、すっかり恰幅も良くなったが、あの時代を見てきた大洋ファンの筆者は山崎が元気でいてくれるだけで嬉しくなってしまう。筆者が今も大事にする大洋のメガホンには、59番がしっかりと残っている。

当時のチビッ子ファン必須のメガホンに背番号シール。1986年、小6の筆者は山崎への思いをこめて59番を貼った。

 いま、山下幸輝の活躍に刺激を受けている選手はチーム内にも多いはず。まだまだ続く2020総力戦シーズン。山下や、かつての山崎のようにそれぞれの「起死回生」を見せてくれればまだまだ先はわからない。桑原、乙坂、関根、後半戦はマジで頼むよ!

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