筒美京平の名を最初に意識したのは、グループサウンズ全盛の頃だった。といって、実はそれは決して好印象なものでもなかった。
昭和42年のことである。
たちまちの大ヒットとなった『バラ色の雲』
当時、生意気盛りの高校生であった私は、何よりGS/ロックにのめり込んでいて、それこそ“一端(いっぱし)の通”を気取っていた。好むバンドも当然“渋い”ものとなる。
ご贔屓のひとつが、ヴィレッジ・シンガーズだった。
あまりフォークロック系は好きではなかったのだが、デビューシングル『暗い砂浜』での12弦ギターの用い方等々の、モダンなセンスに感銘を受け「この人たちは分かってる!」と、勝手に決めつけ、好んで聴いていたのだが、玄人受けで大したヒットにはならなかった。
それで新規蒔き直しということになったのだろう、清水道夫をリードボーカルに迎えフォーメーションもあらたに、捲土重来を図る意味でリリースされたのが『バラ色の雲』だった。
これが、鳴り物入りといっていい売り出しも手伝ってか(清水道夫のフェロモンも無論無関係ではない)、たちまちの大ヒットとなったのである。だが、曲調は、前作とは似ても似つかぬ、エレキバンド編成であることの必然性のほぼない、単なる甘口のフォーク歌謡のようなものだった。
私は幼心にも、またこうしてどんどんGSというものは陳腐化/無意味化してゆくのだなぁと、悲しい気持ちになった。それはザ・スパイダースが『夕陽が泣いている』を出した時にも思ったことだったが……。なにせ当時の俺は、それこそゴリゴリの“ロック少年”で、GSこそが日本に音楽革命をもたらしてくれるものと本気で信じていたのである。そんな私にとって『バラ色の雲』の示す方向性は、正に反動そのものに思えた。そしてその作曲者こそ、いわずと知れた筒美京平その人だったのである。
それまでの日本歌謡にはなかったテイスト
そんな訳で、私は“のっけから”京平さんの音楽の大ファンだったというのではないのだが、気になり始めたのも、やはりGSだった。
ザ・ジャガーズ『星空の二人』、そしてオックスの『ダンシング・セブンティーン』。どちらもソウルミュージック、それもモータウンではなく、スタックス系の、いわゆる“リズム&ブルース”のマナーを意識したと思われる、ダンサブルなナンバーで、『バラ色の雲』などの歌謡路線とは、全く別物といっていい曲調である。
2曲は、'68年の9月、ほぼ同じ時期に発売された。今あらためて聴き直すと、ホーンのアレンジ、和声の動きなどには似通ったところもある。ひょっとして並行して曲作りが行われていたのだろうか。そのあたりの経緯は今となっては確かめようもないが、とにかくこうしたテイストの曲というのは、それまでの日本の歌謡曲にはみられなかった。
一体これも書き、『バラ色の雲』も書く人とはどういう人なのだろう? そこから、私の筒美京平という音楽家への興味は芽生えていったのである。