木内みどりの死にかたに、私は拍手したくなる――ひとり娘が綴った母の最期
『あかるい死にかた』「おわりに――『木内みどり』の完成」より
人間には生きている状態と死んでいる状態があるだけ
2020年1月半ばのある夜、夢に母が出てきた。自宅の台所で何事もなかったかのように料理をしている母と、そのことを素直に喜んでいる私は、「久しぶりだね」「いつまでいるの?」「そろそろ戻らなきゃ」と、母が死んでいるという設定はそのままに、でもいつもどおりに会話をしていた。そのなかで、もう行ってしまうなら聞いておこうと意気込んで投げた「ふだんいるところからは私たちのこと見えてるの?」という質問に、母は少しきまり悪そうにはにかんで「見てない」と返してきた。
夢から覚めてすぐ、見てないのかよ、見ててよ、と落胆したけれど、見ていないところも正直にそう答えるところもいかにも母で、これは本物が来たなと感じた。数週間後にふと、もしかしてあの日が四十九日ってやつだったのかもと計算してみたところ、五十五日だった。
全人類でいちばん大好きな人がいなくなって、世界一悲しい思いをした。それでも図太く生き残っていて、もう極限の悲しみを体験したからあとは気楽だとか、母が新型コロナウイルスやその周辺の時事問題を知らずに済んでよかったとか、前向きに考えたりもする。人間には生きている状態と死んでいる状態があるだけだとも思う。母は生きている状態から死んでいる状態に移行しただけで、母がしたこと、作ったもの、そしてそれらにまつわる思考や感情は消えも変わりもしないのだと、母が置いていったあらゆる物事に教えられる。
木内みどりの死にかたに、私は拍手したくなる
母の死によって「木内みどり」が完成したと思う。木内みどりは、自分自身の決めた正しさにいつでもまっすぐ、強烈な速度で向かっていた。その鋭さと危うさが母親のものであることは手放しでは喜べないものの、木内みどりのものだと思えば、かっこよくて大好きだった。だから、自分の速度まで追い越した果てに散ってしまったような木内みどりの死にかたに、母親の死という悲しみを放ってでも、私は拍手したくなる。
死ぬことはぜんぜん怖くない、死んだら会える人が何人もいる、死んでからもやりたいことがあると言っていた母。きっと今いるどこかでも、その中心からずれながら、大いに楽しんでいるだろう。こちらのことを見るひまもなく。
(『あかるい死にかた』「おわりに――『木内みどり』の完成」より)