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マンション建設で発見…秀吉が京都に築いた「幻の城」はどこにあったのか?

“京都の城”をめぐる旅 #2

2020/12/01
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 京都で酒処といえば伏見を連想するが、かつての洛中は伏見を凌駕する酒蔵数を誇っていた。洛中に唯一残る造り酒屋、佐々木酒造4代目の佐々木晃さん曰く、室町中期には300軒が密集する日本最大の酒処だったという。

洛中に唯一残る造り酒屋、佐々木酒造。

“洛中”とは、豊臣秀吉が天正19年(1591)に構築した「御土居(おどい)」の内側の区域のことだ。秀吉は、応仁の乱で荒れ果てた京都を再建するため、大規模な京都改造計画に着手。天正13年(1585)から京都での邸宅「聚楽第」を建設し、大名屋敷や寺町を整備した。

 都市改造の一環として、京都をぐるりと囲むように構えた総延長約23キロの城壁が、御土居だ。土を盛り上げた土手のような「土塁」と堀のセットで、京都を外敵から守る防御壁であり、鴨川の氾濫など水害対策の堤防でもあった。

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北区、平野鳥居前町に残る御土居。9か所が国史跡に指定されている。
北区、紫野西土居町に残る御土居。高さは概ね3メートルほど。

秀吉も飲んだ? 金明水・銀明水

 秀吉が聚楽第をこの地に築いた理由のひとつとされるのが、良質な地下水だ。三方を山に囲まれる京都は、水瓶のように地下水が集まる。秀吉は「金明水・銀明水」と呼ばれる名水を求めてこの地を選び、聚楽第内に設けた茶室で千利休が立てた茶の湯を楽しんだといわれる。

 佐々木酒造は聚楽第の敷地内にあり、金明水・銀明水を使用した洛中伝承の技法で酒造りを続けている。京都は古来、良質な献上米が集まる都。自ずと酒造りが盛んになったという。

 秀吉が伏見城を築いたことで伏見城下町が発展し、酒処も洛中から伏見へと変わっていった。天正19年(1591)、秀吉は甥の秀次に聚楽第を譲渡。文禄4年(1595)に秀次が自害すると聚楽第は破却され、遺構の一部は伏見城に運ばれた。

佐々木酒造の代表銘柄「聚楽第」。ラベルには「洛中洛外図屏風」が。 ©文藝春秋

 ところで、伏見城には3つの姿があるのをご存知だろうか。初代は、文禄元年(1592)に秀吉が指月に建てた「指月(しづき)伏見城」。2代目は、慶長元年(1596)の大地震で倒壊した指月伏見城に代わり、木幡山に場所を移して築かれた「木幡山伏見城」だ。

 この木幡山伏見城に、聚楽第から多くの建物が移築されたとみられる。木幡山伏見城の完成と城下町の整備により、伏見は大発展を遂げた。