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西城秀樹と故郷・広島の物語……50年以上大切に保管していた“学生帽”に込められた思い

西城秀樹と故郷・広島の物語……50年以上大切に保管していた“学生帽”に込められた思い

2020/12/11

学生帽にまつわる秀樹の武勇伝

 1970年、秀樹は、私立山陽高等学校へ進学する。山陽高等学校は、広島市西区観音新町にあり、高台にある校舎からは、広島の港が一望できる。「子供のころから、うれしいときにいつも登った黄金山の眺めとともに、広島の海と空が一望できる風景が大好きだった」と語り、広島へ帰ると友人たちと訪れ、雑誌の撮影場所としても指定している。1974年『明星』12月号掲載の写真も、このお気に入りの場所で撮影したものだ。

広島の港が一望できる高台で撮影(『明星』1974年12月号 集英社 より)

 冒頭で紹介した学生帽は、1970年に山陽高等学校に入学したときのものである。音楽の道へ進むと決心していても、高校入学は大人へのステップとして、うれしい思いで迎えたのだろう。帽子に描かれたイニシアルや名前からそんな喜びが伝わってくるようだ。まさか、わずか半年で、この高校を辞め、周囲の反対を押し切って上京することになるとは、夢にも思っていなかったはずだ。

 また、この学生帽にはファンの間では有名な、秀樹の武勇伝ともいえるエピソードがある。学生帽に学生服という厳格な決まりのある高校に、当時風紀委員だった秀樹がある日、帽子をかぶらずに登校、厳しく咎められた時のこと、逆に全生徒の前で秀樹が大演説をした結果、帽子着用は自由、ということになった、というお話。当時の雑誌の記事には帽子について、「大演説以後、秀樹のあたまにはのらなくなった。今も、秀樹の部屋に大切に保管されている」とある。

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 高校生になっても、もちろん『ジプシー』でのバンド活動は続けていた。ビアガーデンでアルバイトをしたり、岩国の米軍基地のライブハウスで演奏したりしているうちに、R&B喫茶、ライブハウスの『パンチ』から声がかかり出演するようになる。『パンチ』は当時、広島の中心地、八丁堀近くにあり、吉田拓郎が練習拠点にしていたことでも知られる、広島の音楽シーンの中心だった。その有名なライブハウスに認められ、そこのレギュラーバンドとなるということは、バンドと秀樹の音楽が本物であったことを物語っている。そしてバンドのメインヴォーカルだった秀樹の歌を『パンチ』で聴いた東京の芸能プロデューサーにスカウトされることになる。

 東京のプロデューサーからスカウトされるということが、地方の高校に入ったばかりの少年にとってどれだけ大きなことだったかは想像に難くない。ついに、大好きな音楽で生きていけると思い、両親に上京の決意を告げるが父親は大反対。厳しいことで有名だった父は、息子の手足を縛り、押し入れに閉じ込めた、というエピソードも伝わっている。

 1970年、9月。高校1年の2学期半ばである。周囲の反対を押し切り、家出同然で夜行列車に飛び乗った。

「たった一人で広島を発った。夜行列車では期待と不安でいっぱいだった」と、そのときの心境を語っている。大人びているとはいえ、わずか15歳の少年の故郷からの旅立ちだった。

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