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コロナも不況も「最悪のときこそ最高なの」

 東京理科大学の物理学科出身。年が改まれば75歳になる。話を聞いていると、素粒子に熱エネルギー、作用反作用、エントロピーの法則、ニュートリノ、ついには相対性理論と物理用語が次々に飛び出す。

創業当時の正垣氏(右) ©文藝春秋

 少し紹介すると、グラスワインは白・赤ともに驚くことなかれ1杯100円である。しかも美味い。ランチのメニューでは、メイン料理に、前菜のサラダ、おかわり自由のスープバーが付いて500円と、なお徹底している。安かろう悪かろうの商品であったなら、国内で1000を超える店舗のチェーンになどなるはずがない。

「いまのコロナも不況もそうだけど、お客さんが来なくなったり、売り上げが落ちたりして、嫌なことがいっぱい起きるでしょう。そのときこそ、商品も働き方も改善しなきゃいけない。だから、困ったときこそ最高なわけ。ピンチはチャンスというでしょう。ピンチは、それまでの自分を変えるチャンスなんですよ。最悪のときこそ最高なの。自分が変われば、見える世界がまるっきり違ってくる」

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 工場を併設した本社を埼玉県吉川市に置き、都心には東京本部オフィスを構えている。その東京オフィスの小さな一室で、キャスター付きの背もたれ椅子に座って、両足をぷらんぷらんと子どものように揺らしながら、雑談でもするように独特の経営観が繰り出されてくる。数理学の教養を豊かに持ちつつ、「商品のコストなんて考えたことない」、「儲けようと思ったこともない」と、その語り口は融通無碍である。

ときに警察沙汰を引き起こす「やんちゃなガキ大将」

 兵庫県の中部にあった生野町(現・朝来市)に生まれる。正垣は「山奥を駆けずり回っていた」と回想する。

 小学2年の10月、父の仕事の都合で東京・荻窪に転居する。関西との言葉の違い以上に正垣を戸惑わせたのは、東京は大人も子どもも総じて物静かで外面(そとづら)のいいことであった。

 父の英夫は、知的障碍者の学校を運営したりしていた。慈愛あふるる篤志家のように思えるが、妻以外の女性との間に次々と子どもをもうけるなど、奔放で気ままな男であった。

 母のとみえは、英夫に後妻として嫁ぎ、先妻の子、自ら産んだ泰彦とともに、夫が外で生ませた子まで引き取って、分け隔てなく育てるという、なんとも慈悲の深すぎる、クリスチャンでありながら神社仏閣でも掌を合わせる謙虚な女丈夫であった。

©文藝春秋

「おふくろは、『お父さんが悪いわけじゃない。わたしがいけないから。相手の女性にも申し訳ない』なんて本気で話す人だった。親父を恨んだことは一度としてなかったと思うね」

 東京の小中学校時代、おとなしい都会っ子を従えるようにガキ大将となった正垣は、ときに警察沙汰を引き起こすやんちゃな問題児であった。