「道端の塀の向こうに柿が生(な)っているでしょう。みんなに食べさせてやりたいな、と思うと、自分のことなんてそっちのけで、庭に入ってのこぎりで切り倒しちゃう。友だちと麻雀を覚えて遊んでいると、みんな寒いだろうなと思って学校の灯油ストーブを持ってきたりして、しょっちゅう、先生たちに迷惑をかけてた」
己の利得を計算する前に、友だちを思いやって突飛な行動に出て、周りの大人たちが右往左往させられる。会社の採算を度外視し、客へより安く商品を提供することを宣言して、幹部たちが慌てふためく。そのようにして、正垣泰彦は生き、サイゼリヤは発展してきたといえるのではないか。なにより、友だちも、そして客も、驚きながら喜んで喝采した。
成績が芳しいはずはない。高校時代、数学と物理だけは得意で、文系科目が苦手であった。そこで、得意2教科と英語の3科目で受験できる東京理科大を受けて合格を果たす。
さまざまなアルバイトをして忙しく、ろくに大学へ行かなかった3年生の春、当時、自宅のあった新宿に、1年中、アルバイト募集の貼り紙を出している食堂があった。気になって面接を受けてみると、仕事がきついので、みなすぐに辞めていってしまう、と店主は嘆く。納得して店をあとにするのではなく、「じゃあやってみるか」と常識とは反対の発想をするのが正垣泰彦という男なのである。「これが運のつきで、いまに至っちゃった」と笑いもせずに振り返る。
ビルの4階にある食堂で、みなが嫌がる皿洗いを率先して引き受け、閉店後には大きなバケツに5つほどにもなる生ごみを1人で1つずつ担いで1階まで階段を降りて運んだ。
「潰れそうなどうしようもない店」が、サイゼリヤの第一号店
大学にはろくに通っていなかったが、専攻する鉛の単結晶をテーマにした卒業論文は納得のいくものが書きたかった。4年生となり、店を辞めたいと申し出ると、コックや従業員から「どうか辞めないでくれ」と引きとめられる。働きぶりがそれほど認められていたのである。しかし、アルバイトをつづけながらでは、卒論を書くために必要な実験の時間をとることはできない。事情を明かすと、みながそろって、どこかで別の食堂を開いてくれたらそこへ移るから頼む、と頭を下げるのであった。
「それで、うちの親父に相談したら、知り合いがやってて潰れそうなどうしようもない店がある、というんで、じゃあやってみるか、と決まった」
その店こそ、千葉・市川にある、いまのJR本八幡駅に近い「フルーツパーラー・サイゼリヤ」という洋食店であった。商店街にあり、1階が八百屋で、狭くて急な階段を上らなければならない2階の店である。コックや従業員たちがそろってこの店へ移ってきた。1967(昭和42)年、正垣が店主として始めたこの店は今日のサイゼリヤの記念すべき第1号店である。
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「フルーツパーラー・サイゼリヤ」は、いかにして33都道府県にチェーン展開、海外に約400店を構えるほどの成長を遂げたのか。正垣会長ロングインタビュー「サイゼリヤ会長・正垣泰彦の『常識の反対をいく』レストラン経営」の全文は「文藝春秋 電子版」でお読みいただけます。
「常識の反対をいく」レストラン経営 正垣泰彦(サイゼリヤ会長)