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東海道新幹線「のぞみ」の“ナゾの通過駅”「岐阜羽島」には何がある?

2021/03/01
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公園に待ち受ける「とある夫妻の像」

 円空仏のオブジェを横目に駅前の小さな公園に足を運ぶ。するとそこにはもうひとつの大きな銅像が待ち受けていた。指をさすおじさんとその横に佇むおばさん。「大野伴睦夫妻像」だという。円空は教科書にも載るような江戸時代のお坊さんだったが、こちらは昭和を代表する政治家のご登場である。岐阜羽島駅と大野伴睦センセイ、どんな関係があるのだろうか。

 

 実は、大野伴睦はここ岐阜県を地盤としていて、岐阜羽島駅は大野伴睦が強引に作らせた“政治駅”として話題になっていたことがある。政治と鉄道はいつの時代も切り離せないものだが、ときの有力政治家が自らの地盤に新幹線の駅を作らせてその上に駅前に自らの像まで、となればこれはもう利権も利権、大問題。そんなことが許されていいのか、である。

1964年にできた「岐阜羽島」

 ほんとうに大野伴睦が岐阜羽島駅を作らせたのかを考えるためには、岐阜羽島駅の歴史を振り返らなければならない。

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当時の東海道新幹線試乗会の様子 ©文藝春秋

 岐阜羽島駅の開業は1964年10月1日。つまり東海道新幹線の開業と同時である。大野伴睦自身は新幹線開業直前の1964年5月にこの世を去っているが、建設が進んでいた時期には自民党の副総裁として辣腕を振るっていた。だから、岐阜羽島駅が大野伴睦センセイのおかげで、となってもなんの不思議でもなさそうだ。

 だが、鉄道の観点から見てみると岐阜羽島駅にはなんの不思議もないことがわかる。名古屋から西を目指すとき、新幹線のように高速で走ることを前提にしていれば少しでもカーブの少ない直線的なルートが望ましい。なので岐阜県の県都である岐阜市を通るとかなりの遠回りになってしまうので、それはさすがに無理筋であった。

 

 もしも、大野伴睦が強権を奮ったのであれば、遠回りになっても岐阜駅を経由させたのではなかろうか。しかし実際にはそうはならず、新幹線は岐阜県の南西部をかすめるように通り抜けるだけになっている。

 そして新幹線には経由する都道府県全てに駅を設けるという原則があった。ならば、岐阜市にも近い現在の羽島市内に駅を、という話になるのはとうぜんの成り行きである。

 さらに、もしも岐阜県内に駅を設けなければ名古屋~米原間は駅間距離が開きすぎてしまい、列車の追い越しや緊急時の対応などに制約が生まれてしまう。つまり運行上の観点からも、羽島市付近に駅をつくるのは妥当な選択だったのである。

 というわけで、岐阜羽島駅は地味かもしれないけれど存在そのものにはいささかもおかしな点はない。政治駅、などと呼ばれたら岐阜羽島駅は憤懣やるかたないに違いない。

生前の大野伴睦 ©文藝春秋

 大野伴睦が関わった点といえば、羽島駅ではなく頭に県名をつけた“岐阜”羽島駅にしてくれと言ったというエピソードが伝わる。また、岐阜市内に駅をつくれという声に対して、岐阜羽島駅を作らせるからこらえてくれ、と調整役に回ったという話もある。

 実際がどうだったのかはわからないが、少なくとも岐阜羽島駅は大野伴睦センセイの強権の産物ではない、と言い切っていいのではないかと思う。いずれにしても、大野伴睦センセイ夫妻は今も駅前で岐阜羽島駅を見守っているのである。

乗り入れる中京地区の私鉄の雄・名鉄

 大野伴睦センセイの像とは反対側の一角には、もうひとつ気になるものがあった。「新羽島駅」と書かれた小さな駅舎だ。