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 吉本総合芸能学院(NSC)の4期生(1985年入学)である今田のデビューのきっかけは、ちょうど卒業する頃、心斎橋筋2丁目劇場がオープンし、その前座を選ぶオーディションを受けたことだった。同劇場は大﨑洋(現・吉本興業取締役会長)が仕切りながら、今田にとってはNSCの先輩にあたるダウンタウンを売り出そうとしていた。オーディションに合格して毎週舞台に出るようになっても、笑いがとれなければ翌週からは出番がなくなるという厳しい状況のなか、今田は一度も落とされなかったという(※1)。

ダウンタウンの2人 ©️文藝春秋

『ごっつええ感じ』で今田の知名度も全国区に

 劇場では大﨑から芸人としての心構えを叩き込まれながら、毎日放送の『4時ですよ~だ』に出演を果たす。ダウンタウンを関西の人気者にしたテレビ番組である。1989年に同番組が終わり、彼らが東京に進出したあと、今田は吉本新喜劇にしばらく在籍した。だが、フジテレビで日曜ゴールデンタイムのバラエティ番組『ダウンタウンのごっつええ感じ』(1991~97年)が始まるにあたり、気心の知れたメンバーでないとコントはやれないというダウンタウンの意向から、彼も呼ばれて上京する。

『ごっつええ感じ』によりダウンタウンはお笑い界の頂点をきわめた。今田もそれによって全国的に知られるようになったが、弊害もあったらしい。本人によれば、《ダウンタウンさんとやってることで『自分らが一番オモロイもんを作ってる』という自負が強すぎて、他のことを軽く見てました》という(※2)。

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『ごっつええ感じ』で今田も全国区の芸人へとジャンプアップ

ほかの共演者と激しくぶつかることになった今田

 前出の『殿様のフェロモン』では、そうした意識から、ほかの共演者と激しくぶつかることになった。同番組には、同年代ながら関東出身で10代の頃から人気を集めていた中山秀征のほか、ナインティナインや極楽とんぼ、よゐこら若手芸人も集まっていた。今田は彼らに対し、「関東と若手と全員ぶっつぶしてやる」とひとり息巻いていたという。

 が、これが裏目に出る。中山は、かつての人気番組『オールナイトフジ』(フジテレビ系)のように女の子たちを集めて景気よくやる番組だと思っていたのが、いざ始まってみたら、笑いの戦場みたいな雰囲気で肩透かしを食らう。ナインティナインは今田をすっかり怖がってしまった。