現役を引退する韓国の英雄

 同じ年の選手の引退は寂しいものである。それが誕生日まで一緒であれば尚更だ。日韓プロ野球で600本以上の本塁打を放って活躍した韓国プロ野球・サムスンの李承燁(イ・スンヨプ)内野手とは05年、千葉ロッテマリーンズで一緒に仕事をさせてもらった。たまたま李承燁に、この年から入団したトレーニング担当の高橋純一氏、そして私の3人が同じ年で同じ8月18日生まれとそろった。なかなか珍しい現象に「何かいいことがあるかもね」と笑い話をしており、結果的に日本一になったこともあって、思い出深い。

 韓国の英雄と言われる男。あだ名は「ライオンキング」で一時期は髪を金髪に染めていた。それを聞くだけでも、どんな怖い男かと最初はおびえたものだが、謙虚で練習熱心で、どちらかというと寡黙な男だった。

日韓プロ野球で600本以上の本塁打を放って活躍した李承燁 ©文藝春秋

 来日1年目となったマリーンズでの04年は苦悩の連続だった。前の打者が敬遠され、自分と勝負されることもあった。変化球中心の日本の野球になかなか対応できず、三振の山を築いた。期待の大きさゆえに周囲の目も厳しかった。「韓国の期待とかを背負いすぎではないかな? もっとリラックスして打っていいんじゃないの?」。そう、周囲から勧められたこともあった。確かに母国からの過剰ともいえる期待はプレッシャーという重荷となって李承燁の両肩にのしかかっていた。プライドや周囲の想いをあえて捨てることで楽にはなるのは間違いのない事実であった。しかし、李承燁は拒絶した。

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「そういうものは簡単に捨てて良いものではない。だから、ボクはあえて背負い続けます。ボクは成功を収めないといけない。ボクが失敗してしまうと韓国プレーヤーが国外に出るのを恐れるかもしれない。そんな事態にだけは絶対にしてはならない。ボクの後にどんどん海外への道が作られるためにも頑張らないといけない」

 その言葉から韓国野球への強い愛と責任感を感じた。李承燁はいつもそんな思いをバットに込め打席に向かっていた。左手でヘルメットのツバに触り、バットを3度、回す。一連の動きをこなしながら彼はバットに魂を注入していた。家族のために、チームのために、そして韓国野球界のために。これまでの人生で関わってきた様々な人々の顔を思い返しバットを振り、そしてアーチを量産していった。