文春オンライン

《三宅裕司70歳に》「飲みに行くときは団員に絶対払わせない」 “親分肌”の名司会者はなぜ生まれたのか?

5月3日はタレント・三宅裕司の誕生日

2021/05/03
note

大学の落研で、面白さはトップクラス

 明治大学の落研の後輩のなかに、落語家の立川志の輔、コント赤信号の渡辺正行がいたことはよく知られる。富山出身の志の輔は、部員のなかでも面白さはトップクラスだった三宅から、これが粋な笑いなんだと教わったという(※4)。それだけに、研究会の誰もが三宅は卒業したら落語家になるのだろうと思っていた。だが、彼が目指したのは喜劇俳優だった。落語のように1人で座って演じる芸より、立って動き回りながらグループで演じる表現のほうが自分の性格に合っていると思ったからだという。

立川志の輔 ©️文藝春秋

磨けば光る才能を集めて劇団を旗揚げ

 卒業後は日本テレビのタレント学院などを経て、大江戸新喜劇という劇団に参加する。しかし、この劇団の主宰者の笑いのセンスが古くて、芝居はまったくウケない。公演を重ねるたびに客が減っていくなかで三宅はふと、これほどウケない芝居なら、ここでやっていることをすべて逆にやれば大ウケするのではないかとひらめいた。そこで冷静に見ていくと、具体的にどこが悪いのかわかってきた。

 そもそも劇団の芝居は、台本には物語の要点が簡単に書いてあるだけで、あとは役者のアドリブで見せる、「アチャラカ」と呼ばれる芝居だった。だが、アチャラカの笑いが成り立つためには、1人でも客を笑わせることのできる高い表現力を持つプロの芸人を必要とする。プロの芸人同士がハイレベルなアドリブをぶつけ合うからこそアチャラカは面白いのに、それを素人がやればただの“おふざけ”になってしまう。劇団の芝居がまさにそれだった(※3)。

ADVERTISEMENT

 これとは逆に、きちんと練られた台本を役者が的確に演じれば、しっかり笑いも取れるのではないか。幸い、劇団には役者もスタッフも磨けば光りそうな才能がそろっていた。そこで三宅は彼らを集めて、コントを書いていた大沢直行に台本を頼み、自ら演出して公演を行なった。これが予想以上に大ウケを取る。自信をつけた三宅は、このとき出演した永田耕一や小倉久寛らとともに劇団を脱退し、新たな劇団を旗揚げした。それがSETであった。