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《三宅裕司70歳に》「飲みに行くときは団員に絶対払わせない」 “親分肌”の名司会者はなぜ生まれたのか?

5月3日はタレント・三宅裕司の誕生日

2021/05/03
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大先輩である伊東四朗と絶妙なやりとり

 三宅はテレビに出始めた頃にはコントも披露していた。80年代に放送された『いい加減にします!』などのバラエティ番組では、喜劇界の大先輩である伊東四朗と組み、セリフがいつのまにか歌になってしまうコントなど絶妙なやりとりで笑いを取った。

伊東四朗 ©️文藝春秋

 ただ、三宅が最初に舞台を演出して以来、「演じる笑い」を信条としてきたのに対し、テレビではちょうど『オレたちひょうきん族』に代表される、出演者のキャラクターやアドリブに頼った笑いが勢いを増していた。彼がテレビでコントから司会へ比重を移したのも、こうした笑いが自分の目指すものではないと判断したからだった。

東京の笑いを意識した三宅の劇団SET

 SETは結成時より「ミュージカル・アクション・コメディ」を標榜するとおり、俳優たちが歌って踊り、派手なアクションを見せながらの喜劇を売りにしている。常に観客の意表を突くため、公演では毎回、劇団員が新たなことに挑戦してきた。劇中で綱渡りをやるために劇団員がサーカスで修業したこともある。ほかにも楽器演奏など、40人近くいる団員が1つの目標に向かって1年くらい練習しないとできないようなものをしょっちゅう入れているが、それも劇団だからこそできることだ。演劇界では90年代以降、公演ごとに俳優を集めるプロデュース公演が主流となっていくなかで、三宅が劇団という形にこだわるのは、そんなところにも理由がある。

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 大阪の笑いに対し東京の笑いを強く意識する三宅にとって、音楽も重要な要素だ。大阪人には「そんなカッコつけても笑いは取れない」みたいなところがあるのに対し、東京人はどうしてもカッコつけたがる。だから彼は舞台でもセンスのいい音楽を流すのだが、そのあとでバカなことをやれば、落差は大きくなる。そのおかしさを狙うのが東京喜劇だというのだ(※5)。2004年には東京喜劇を継承するべく、伊東四朗を座長に担いで「伊東四朗一座」を旗揚げしている。以来、伊東がいないときは三宅自ら座長となって「熱海五郎一座」と称して、喜劇の公演を続けてきた。