プレーオフ制度と「工藤騒動」
9月16日にソフトバンクがパ・リーグ優勝を決めました。CS制度がなければ、翌日以降は消化試合となりファンの興味のほとんどは個人記録となります。この制度が取り入れた当時、賛否両論ありましたが現在では「市民権」を得たようにも思えます。まだ、改善の余地もありますが。
私がラジオの野球中継にかかわった最初の年、1982年のパ・リーグは65試合ずつの前・後期制で、それぞれの最高勝率チームとのPO(プレーオフ)により、先に3勝したチームが日本シリーズ出場権を得るルールでした。ただし、この制度はこの年限りで廃止され、翌年は130試合戦って1位と2位が5ゲーム差以内ならばPOで優勝チームを決める、というまったくわけの分からない取り決めができました。詳細は割愛しますが、1年限りで消えたのはいうまでもありません。
その82年のPOでオールドファンには語り草となっている「工藤騒動」が起きました。前期優勝の西武と後期優勝の日本ハムとの対戦になりましたが、その一か月前に西武キラーの工藤幹夫が右手小指を骨折し、登板不可能と見られていました。実際、前日までは右手に包帯を巻いていましたので誰もがそう信じたのは当然のことです。
ところが、西武ライオンズ球場(当時)で行われた第1戦の試合前のメンバー交換でどよめきが。日本ハムの先発が工藤だったのです。混乱するネット裏では西武の先発がルーキーの工藤公康(現ソフトバンク監督)との情報も錯綜していました。試合は工藤の投球に苦しんだ西武打線でしたが、終盤に江夏豊を攻略し初戦を取りました。結局、3勝1敗で日本シリーズに進みましたが、大沢啓二監督の大芝居は実りませんでした。PO終了後、西武の広岡達朗監督の「奇襲作戦は長丁場(の中の1戦)には通用することもあるけど、短期決戦では通用せんよ」の言葉が強く印象に残っています。
4年ぶりのCSを勝ち上がるために
さて、14日から始まるCSは西武にとって4年ぶりの出場。シーズン前はFAで岸孝之が抜け、ドラフト1位も高校生の今井達也でしたので大幅な戦力アップとはならず、「できれば何とかAクラスに」が自身の正直な気持ちでした。しかし、辻発彦新監督の意識改革が浸透し、野手ではルーキー・源田壮亮の遊撃手定着が大きかったと思います。安定感のある守備、確実性の高い打率(.270)、リーグ2位の盗塁数(37個)が挙げられますが、何よりもフルイニング出場が一番の勲章ではないでしょうか。昨年まで固定されなかった遊撃手のレギュラーをいきなりルーキーがつかみ取ったのはお見事のひと言です。
それと、シーズン終盤4番に座った山川穂高。78試合の出場数ながら23本塁打、61打点の数字です。シーズンで稼ぐ数字は決まっているとは言いますが、ファンの心理として143試合に換算してみますと42本、111打点ですから。エルネスト・メヒアをベンチに追いやるのもうなずけます。
さらに、3年連続フルイニング出場の秋山翔吾、勝負強い主将・浅村栄斗の二人が得点源として名を連ねます。この二人のバットが湿っていまいますと、大量点は望めません。下位に中村剛也や森友哉が控えていても、秋山、浅村のバットに頼らざるを得ません。いわゆる打線のキーマンなのです。