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作詞家50年・松本隆「アンチの人がなにを言おうと『君たち、僕らの風呂敷の上に乗っているよ』と言いたい」――文藝春秋特選記事

2021/05/25
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帝王がかけてくれた言葉

 バンド時代から、いずれは専業の作詞家になりたいという思いは持っていました。ある音楽雑誌の編集長にその話をしたら、「そんな甘いもんじゃない」と言われましたけど、自信のようなものはあった。それにせっかく音楽の仕事をするなら、ど真ん中でやってみたいと思ったんです。いまはシンガーソングライターが全盛の時代ですが、当時の音楽業界で真ん中に行くには作曲家、作詞家のどちらかになるしかなかったんです。

©文藝春秋

 解散後に3人くらいの友だちに「作詞家になりたいんだけど、仕事があったら紹介してほしい」と相談して、最初にきたのがチューリップの作詞の仕事でした。「心の旅」がヒットしたけど、その第2弾に悩んでいると。それで書いたのが「夏色のおもいで」(73年)という曲です。そのあとはアグネス・チャンのアルバム用に2曲書いたら「ポケットいっぱいの秘密」(74年)という曲がシングルカットされることになった。それで少しずつ仕事が入るようになりました。

 そのころは「はっぴいえんど」時代の延長で、“売れる詞”ということは考えられませんでした。でも「これで売れるのかな」と半信半疑で書いた「夏色のおもいで」の詞に目をつけてくれた人がいたんです。当時「ブルー・ライト・ヨコハマ」や「また葦う日まで」と立て続けにヒットを飛ばしていた歌謡界の帝王、筒美京平さんです。

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筒美京平氏

 作詞家を目指したとき、いずれは彼と仕事をしたいと思っていました。でも全然コネもツテもない。どうすればたどり着けるんだろうと途方にくれていたときに、突然向こうから呼び出されました。当時、青山の国立競技場のそばにあった億ションの30畳くらいある仕事場で、京平さんは、「夏色のおもいで」を「これこそヒット曲というんだよ。すばらしい」と褒めてくれた。でも、僕はまだ24歳だったし、その詞のなにがよかったのかもよくわからないし、目の前には帝王がいるし(笑)、ただただ呆然としていた。よく憶えているのは、「作曲家ってすごく儲かるんだなあ」とその広い部屋を見て思っていたことですね。

 のちに日本歌謡界最大のヒットメーカー、ゴールデンコンビと呼ばれるようになる「作曲・筒美京平 作詞・松本隆」が初めてタッグを組んだのは1974年。そしてその翌年、太田裕美に提供した「木綿のハンカチーフ」をきっかけに作詞家・松本隆が注目されるようになる。男女の手紙のやり取りを歌詞にし、それをひとりの歌手がうたうという、それまでの常識をやぶるこの曲は、150万枚を超える大ヒットとなった。

「木綿のハンカチーフ」は、その後のいわゆるJ-POPのもとになった曲だと思います。僕が出会ったころ、京平さんはすでに歌謡界の帝王だったけど、僕から見るとそれは“旧”歌謡界。僕はサブカルチャーの出身だから、京平さんにとってはある種の異物だったと思います。でも異物なものが掛け合わされたからこそ、それまでにない新しいものが生まれた。僕の作詞家人生にとって京平さんとの出会いはすごく大きな出来事だったけど、それは京平さんにとっても同じだったんじゃないかと思います。京平さんに怒られるかもしれないけど、僕という作詞家に出会ったことで、筒美京平という作曲家は変わることができたし、そのぶん長くヒットメーカーでいられたのではないかと思っています。