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「練習に励み五輪の日を待つのみ」というアスリートの答えは“逃げ”ではないのだろうか?

文學界2021年7月号「時事殺し」より

2021/06/14

source : 文學界 2021年7月号

genre : 読書, 社会, 歴史, メディア, 政治, スポーツ

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「逃げる」と「頼る」はセット

「逃げる」と同じように、連載全体から浮き上がってきた動詞が「頼る」だった。何か問題が起きた時、これについては彼や彼女がこのように言っているのだから、そんなこと言うもんじゃないよ、という仕組みが方々で繰り返されてきた。「逃げる」と「頼る」ってセットだ。誰かに押し付けて逃げる。もともとそういうものだったのだから、そこで何かあったとしても、特に驚くべきことではないよ、って感じ。

 たとえば、森友学園問題で、公文書の改ざんを強要され、自ら命を絶った財務省近畿財務局・赤木俊夫について、「虎ノ門ニュース」(有本香×髙橋洋一×居島一平・2020年3月19日)で、有本が「財務省は自殺率が高い」と言い、先日、新型コロナウイルスの日本の感染者数の推移を「さざ波」と形容して問題視された髙橋が「本人が思い込んじゃってるんじゃないの」「悪あがきしなければどうってことないじゃないか」「早いうちに体を壊しておけば、外してくれるから。そっちのほうが楽なのに」と言いながら、スタジオは笑いにつつまれていた。

 この笑いを思い出すとき、先日の髙橋のツイート「日本はこの程度の『さざ波』。これで五輪中止とかいうと笑笑」というツイートに含まれる「笑」の意味も見えてくるが、こうして、起きた出来事に対して、声をあげることのできない、あるいは、声のあげにくいほうにその原因があると見せて、それに頼ることによって、問題から逃げていくのである。とにかくいくつもの話題に共通する。できるかぎり、誰かのせいにするのだ。

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池江璃花子選手にすがる人々

 ネガティブな話題は、誰かのせいにする。ポジティブな話題は、誰かにすがる。同じ「頼る」でも、角度は変わってくる。東京オリンピック・パラリンピックの開催をめぐり、なんとしてでも開きたいと考える人たちが競泳の池江璃花子選手にすがる様子がなかなか見ていられない。

 池江に対して、どうして開催に反対しないのか、とSNSなどに書き込むのはよろしくない。池江自身が「選手個人に当てるのはとても苦しいです」とSNSで述べたのを受け、その手の書き込みへの批判が殺到した。

池江璃花子選手 ©文藝春秋

 だが、この池江を、東京五輪の象徴にしようと画策してきたのは、SNSで突っ込む人たちではない。昨年7月、五輪開催まで1年を記念した国立競技場のイベントに登場した池江は、グラウンドの真ん中に1人で立ち、言葉を読み上げた。このイベントを手がけたのが、「オリンピッグ」なる開会式プランが問題視された佐々木宏だが、女性蔑視発言で大会組織委員会会長を辞任した森喜朗が、その蔑視発言が出た場で、このイベントについてどのように言っていたか。ここで振り返っておく。

「去年の1年前のイベントでご覧になったと思いますが、池江さんを使って、国立競技場で1人で手を挙げて、トーチを持ってましたよ。大きな広告を全国の新聞に出しました」「こんなに体力なくても私はオリンピックを目指します、という感じ」である。象徴にして頼っているのは、私たちではなく、運営する側だ。