選手だからといって、批判を免れるわけではない
自身に向かうツイートに苦言を述べた池江について、政治家が、池江選手にそんなことを言うのは許せない、私たちは安心安全を確保しながら開催を目指します、との見解につなげているが、これもまた「頼る」の一種だ。
そもそも、この「選手を批判してはいけない、彼らは頑張っている、だから、オリンピックはやりましょうよ」という頼り方って、素直に受け取ってしまっていいのだろうか。
ジュールズ・ボイコフ/井谷聡子・鵜飼哲・小笠原博毅監訳『オリンピック 反対する側の論理 東京・パリ・ロスをつなぐ世界の反対運動』(作品社)の補章で小笠原がこう書いている。
「近代オリンピックはその始まりからずっと、開催への反対運動や反対意見と共に歴史を歩んできた。反対があるのが当たり前なのである。それを目の当たりにしなくても競技人生を歩んでこられた、代表レベルの選手たちの非社会性は批判されるべきである」
「日本のスポーツ・エリートは、非社会的であることを教育によって求められてきた」
「反対運動や反対意見の現実に目隠しをされて育てられてきた結果が、オリンピック・パラリンピックなのだ」
選手だからといって、批判を無条件に免れるわけではない。選手たちがかわいそうじゃないか、と頼られている選手という存在もまた、かわいそうと言ってくれる存在に頼っている。頼ることで、意見表明の機会から逃れている。
五輪が政治化しているのは明らかなこと
五輪がスポーツイベントとして政治化しているのは、誰がどう見ても明らかなのだから、アスリートの人たちも、目の前にある政治性を受け止めながら、それについてどのように考えるか、個々人が積極的に表明しなければならないのではないか。
様々な意見があるのは知っていますが、自分たちは練習に励み、開催されることを信じ、その日を待つのみです……こういった平均的な見解は、あちこちから頼られやすい見解ではある。自分たちはただ目標に向かうだけ、と言い、治外法権をほのめかすのって、これもまた「逃げる」の一種ではないだろうか。これだけ、開催そのものが厳しく問われている中にあって、これまで通りの逃げ方を続けるのだろうか。