昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

2021/06/09

genre : ニュース, 社会

悪い方の加藤君が出てしまった

 一緒に働いていた立場として、どういう印象だったのか。

「瞬間的にキレてしまう傾向はありましたが、自分の失敗に対して反省し、涙を流せる人だった。一部、暴力的だったという言われ方をしていますが、その反面、それを自分でまずいと感じて、変えようとしていた人でもあります。事件を起こしてしまうことは意外とは思いませんでしたが、踏みとどまれる人間であってほしいと思っていました。悪い方の加藤君が出てしまったなと思います」

 事件前に最後に会ったのは2005年4月頃。加藤が埼玉県のトラック工場に働きに行くことになったときだという。

「『車を持っていけないから10万で買ってくれ』というので、譲り受けることになり、ファミレスで食事をしました。その後二人で流行っていたエヴァンゲリオンのパチンコを打ち、二人ともすぐ当たりましたが、すぐ飲まれてしまい、加藤君の自宅アパートまで車で送って別れたのがリアルで会った最後です」

事件のあった中央通りの交差点

 2006年頃には、かつて上司だった人物が警備会社を作り、大友さんは常勤監査役員で参加していた。事業拡大をしたため、大友さんは電話で何度も加藤を勧誘したという。

「裁判で『仙台の警備員時代、唯一許せなかった』と言っていた当時の営業所長の名前も、新しい会社の参加メンバーとして加藤君に伝えていました。おそらく加藤君は条件が良くても、新しい会社に来なかったと思います。自分がしつこく誘ったものだから、電話に出なくなりました」

問題行動があったときに、より踏み込んだ対応をするべきだった

 事件後、大友さんは加藤と連絡をとろうと思った。事件翌日、万世橋署で出待ちしたこともあった。その後、報道記者から当番弁護士の名前を教えてもらい、個人的に手紙を渡した。何を伝えたかったのか。

「自宅が拘置所から近いので、接見を試みたことがありますが、弁護士以外、接見はできなかったようです。裁判で『世の中で友達がいなかった』と言っていましたが、僕自身はいまだに友達だと思っていると言いたい。物理的に無理ですが、もし、連絡が取れるなら、伝えたいことがありすぎて、何から伝えればいいのかわからないです」

 

 どうすれば、悲痛な出来事を防げたと思うか。

「仙台で一緒に仕事をしていく中で、特に加藤君自身が見下した人に対して暴力を振るったり、問題行動があったときに、より踏み込んだ対応をするべきだったと思います。ブラックな職場を改善しようとせず、前向きな部分を評価しない会社でしたが、同僚としてもっと評価してあげるべきだったと思います。ただし、事件を起こす寸前に、私の顔が浮かばなかったのだから、そこまでの人間関係ができていなかったのでしょうね……」

写真=渋井哲也

この記事の写真(4枚)

ツイッターをフォローして最新記事をいち早く読もう

文春オンラインをフォロー
z