昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

拝啓 涌井秀章様 “愛の波動砲”G.G.佐藤からの手紙〜かつて松坂大輔2世と呼ばれた君への巻

文春野球コラム ペナントレース2021

2021/07/12

 拝啓 涌井秀章様 梅雨の候、わくわくさん、ますますご清栄のこととお喜び申し上げます。

 涌井君に届け、この愛の波動砲―G.G.佐藤です。その後、体調など変わりなく過ごしていますか? ジャパンは、7月だというのに雨の日が続いていて、今年はまだセミの鳴き声を聴いていません。よく、“セミは一週間の命”と聞きますが、最近の研究では約1ヶ月間は元気に鳴き続けると考えられているそうです。そして、成虫として世の中に出る前は、幼虫として地中で、最低でも3年。長いもので17年間もじっと耐えているそうです。普段よりも長い梅雨に文句も言わず、土の中で静かに晴れ舞台を待つセミたちの忍耐は、どこか心を打つではありませんか。

©G.G.佐藤

松坂投手と入れ替わるようにエースの座に上り詰めましたね

 さて、7月7日に、涌井君にとって横浜高校の先輩でもある、日本球界の大エース松坂大輔投手が今季限りでの引退を表明しました。その日、スポーツ紙のインタビューに対して涌井君は「どれだけ背中を見てきたか、追いかけてきたか」と話していましたね。松坂投手引退について、多くの球界関係者や各界の著名人がコメントを発表していましたが、これほど僕の目頭を熱くさせる言葉はありませんでした。そうだよな。ずっとそうやってがんばって来たんだもんな。

松坂大輔と涌井秀章

 僕はプロ入りが遅かったから、西武に入団したとき、2歳年下の松坂大輔は既に球界の超スーパースターでした。アメリカでは捕手としてプレーしていましたが、1年目のキャンプで松坂投手の球を受けた時、あのスライダーが全く捕れなかったことが思い出されます。僕が「おーい。スライダー投げないでくれ!」と言うと、松坂投手は「わかったー!」とあっけらかんと答えてくれました。その後、ストレートがバシバシ投げ込まれてきて、僕の指は腫れ上がっていきました。本当はストレートも投げて欲しくなかった。もう、何も投げないで欲しかった。痛い、痛いよ! その後、すぐに伊東勤監督(当時)のところに行きキャッチャーを辞めたい旨を伝えると「キャッチャーだから獲ったのに! キャッチャー詐欺か!」と怒られたものです。

 その翌年、涌井君は1巡目指名で西武ライオンズに入団してきました。まだチーム名に「埼玉」が付く前でしたね。横浜高校入学時から「松坂2世」などと呼ばれてきた涌井君の野球人生は、始めから壮絶なプレッシャーとの戦いだったと思います。しかし、涌井君はそれに負けることなく、結果が出ないときも黙々と努力を続け、高校時代から今日まで不屈の精神で大きすぎる背中を追いかけてきました。わっくんががんばっていること、ちゃんとブルペンの陰から見ていたよ。帽子を後ろにしてじーっと見ていたよ。

 松坂投手が渡米する前の最後の年である2006年に、初の二桁勝利となる12勝を挙げ、翌年は前年の松坂投手と同じ17勝、08年は10勝、09年16勝と西武のエースとして二桁勝利を続けていきました。まさに松坂投手と入れ替わるようにエースの座に上り詰めましたね。初めて涌井君とあった頃、君はまだ高校生らしいあどけなさがあったけど、どんどん凛々しい顔に変わっていったことが思い出されます。