世の新刊書評欄では取り上げられない、5年前・10年前の傑作、あるいはスルーされてしまった傑作から、徹夜必至の面白本を、熱くお勧めします。
◆◆◆
森博嗣のノンシリーズ長篇『喜嶋先生の静かな世界』は、学問という行為について書かれた美しい小説だ。
文字を読むことが苦手だった〈僕〉こと橋場は、好きな数学と物理で国立大学の入試を突破しようと考え、見事に成功する。だが、大学の講義は高校授業の延長に近く、彼の期待したようなものではなかった。すっかり失望した〈僕〉だったが、四年生になって研究室に配属されたことで転機を迎える。卒論指導で出会ったのは、それまで知っていた勉強のやり方とまったく違う思想だったのだ。
助手の喜嶋先生から薫陶を受けた〈僕〉は、研究者という第二の自我を獲得していく。生活のすべてを目の前の研究課題に打ち込み、それこそ息をするのももどかしいというほどに熱中する。しかし、学部から院に進めば、自由と引き換えに研究者はどんどん孤独になっていく。光り輝くゴールなどどこにもなく、どこに進むべきかは、暗闇の中で自分自身と対話しながら決めていかなければいけないのだ。しかも研究には終わりがない。そのことに疲れ、脱落する者も後を絶たないが、〈僕〉は喜嶋先生とこんな会話を交わすのである。
「この問題が解決したら、どうなるんですか?」
「もう少し難しい問題が把握できる」
喜嶋先生は研究者の純粋さを体現する人物で、その態度は徹底している。これほどまでに一つのことに打ち込めるものか、と感銘を受ける読者は多いはずだ。楽な道へ迂回したくなったとき、生活のためだから、と妥協の言い訳を呟きたくなったとき、私はそっとこの小説を取り出して読む。これから大学に進もうという若者にも、ぜひ手に取ってもらいたい。(恋)