※こちらは公募企画「文春野球フレッシュオールスター2021」に届いた原稿のなかから出場権を獲得したコラムです。おもしろいと思ったら文末のHITボタンを押してください。

【出場者プロフィール】たなてつ(たなてつ) 近鉄バファローズ 56歳。滋賀県出身の荒木大輔世代。中学は桐生選手、大学は多田選手(陸上)の先輩なのに鈍足。実は敬虔な虎党で、85年バース・掛布・岡田の3連発と21年佐藤輝明の1試合3連発を球場で見られたのが自慢。職場は某公営競技の施行団体です。

◆ ◆ ◆

ADVERTISEMENT

 1988(昭和63)年10月19日は、プロ野球、そしてパ・リーグにとって特別な日となった。近鉄バファローズがこの年のシーズン最終戦を迎え、川崎球場でのロッテとのダブルヘッダーに連勝すれば、奇跡の逆転優勝を遂げることができるのだ。

 春から新入社員として東京・府中に勤務していた僕は色めき立っていた。この大一番を現地で見届けたいという気持ちが強かったのだが、別の思いも頭をよぎっていた。

1988年10月19日、2試合目が引き分けに終わり優勝を逃した近鉄ナイン

近鉄担当のアナウンサー安部憲幸さんとの出会い

 その年の春まで大学時代を過ごした大阪で、朝日放送(ABC)スポーツ部のアルバイトをさせてもらった。プロ野球がある球場に赴き、実況席でアナウンサーのためにスコアをつける仕事だ。当時在阪4球団だったが、阪神以外はパ・リーグ3球団。近鉄(日生・藤井寺)、阪急(西宮)、南海(大阪)の各球場にシフトされる機会も多く、そこで近鉄担当のアナウンサー安部憲幸さんと出会った。

 安部さんは実生活も近鉄ファンで、絶叫型実況スタイルでアクの強い方だった。ゲーム「実況パワフルプロ野球」の初代アナウンサーといえばご存じかもしれない。半面、アルバイトをスタッフの一員として大切にする方だった。何度かご一緒し、スコア以外に書いた試合中の球場雑感メモも受け取ってもらえることが増え、土曜のラジオ中継「バファローズアワー」がある日には必ず指名されるようになった。そして試合後は勝っても負けても「反省会」、近鉄への熱き想いを肴に呑ませていただいた。

 卒業の際には「オイ、近鉄の優勝試合は必ず俺が実況するから、スコアをつけに来てくれよな。どこからでも駆けつけるんだよ!」と嬉しい言葉をいただき、ちょっと本気にしていた。

 当時のパ・リーグはまだ「夜明け前」、運命の試合にもかかわらず東京でのテレビ中継はなく、友人の電話で関西ローカルではABCが放送することを知った。当時の情報力では実況担当が誰なのかわからなかったけれど、きっと安部さんがやると信じていた。放送は見られないから球場で「その瞬間」を迎えたい。そんな思いが川崎球場へと足を向かわせようとしていた。

 第一試合は午後3時開始だった。新入社員の分際で野球を観に行くのに休みをもらうことは、昭和天皇のご容態の関係で自粛ムードだったこともあり、勇気の要る行為だった。なので5時の終業を合図に猛ダッシュ、最寄りのJR南武線府中本町駅に向かった。しかし、そこで貼り出されていた掲示に夢を打ち砕かれた。

「南武線 運転見合わせ」

 午後2時過ぎ、稲城市大丸踏切で立ち往生したダンプカーと電車が衝突して脱線する事故が起き、事後処理が長引き復旧していなかったのだ。武蔵野線に切り替えて球場へ向かうこともできたのだが、時間が相当かかるので、やむを得ずラジオで実況を聴く算段で独身寮に戻った。

 帰寮して、食堂のテレビが報じたのは「阪急ブレーブス、オリエント・リースに球団売却」というニュースだった。唐突な話に呆気にとられているうちに、画面は野球中継に切替った。