安倍1強のなかでの「宏池会的な存在」をめぐって
3年前にこの記事を読んだとき意外に思ったのと同時に、なるほどと思った。
しばらく自民党の傍流的存在だった「清和会」は森、小泉、安倍、福田と2000年代に4人も総理を生んだ。主流になったのである。現在も安倍首相だ。いわゆる安倍1強が続くことは、宏池会的な存在はますます小さくなるという意味でもある。
枝野氏からすればそれを「外」からアピールすれば、保守層の獲得にもなると考えたのではないか? 事実、選挙演説でも「保守」という言葉をよく使用していた。
先の選挙の立憲民主党への盛り上がりを見ると「左派」「革新」だけではない層にも響いたと思える。枝野氏は「保守本流」というキーワードを意識していたのだ。
過去の新聞記事を利用した私のこの見立ては10月16日の「荻上チキ・Session-22」(TBSラジオ)でも述べたのだが、その後に次の記事が出た。
「立憲・枝野代表『私は保守』『30年前なら自民党宏池会ですよ』」(スポーツ報知 10月24日)
枝野氏がテレビ出演で語ったという内容。
《枝野代表は「そもそも保守系とリベラル系を対立させる概念で置くこと自体が間違っている」と指摘。自身が「保守である」と定義した上で「少なくとも私もリベラルではあるとも思っているんですよ、自分のこと。多様性を認めて寛容で社会的な助け合いを大事にする。30年前なら自民党宏池会ですよ。大平正芳さんを保守系でないといいますか? という話なので」と解説した。》
一致結束と多様性は両立できるのか?
やっぱりここでも宏池会というキーワードが出てきた。穏健な保守層に訴えているのだろう。
一方で、立憲民主党にはこんな指摘もある。
「近視眼的な立憲、枝野の足引っ張るグループ」(日刊スポーツ10月28日「政界地獄耳」)
《枝野が考える「多様性を認め合い、困ったときに寄り添い、お互いさまに支え合う」(民進党代表選挙の時の枝野のスローガン)には、その結束の強さからいささか狭量で近視眼的になりがちだ。》
党内の空気の一部を書いているのだ。「狭量で近視眼的」というのは、ヌエのような良くも悪くも曖昧さが売りの保守政党とは正反対である。「頭でっかち」の人たちが陥りやすい態度とも言える。
一致結束と多様性は両立できるのか?
今後の立憲民主党の重要な見どころの一つだ。