「野球は一人でやるスポーツじゃない。みんなで力を合わせれば楽しい。みんな、今日はありがとう」
優勝した神戸弘陵高校の女子野球部のキャプテン、小林芽生さんが優勝後のインタビューで涙を流しながら、それでいて笑いながら言った言葉です。
2021年8月23日、史上初めて女子高校野球の決勝戦が高校野球の聖地、甲子園球場で行われました。
この歴史的瞬間を見逃す訳にはいくまいと、最初から最後までネット観戦をしたんですが、一つ一つのプレー、選手の表情を見ていると自然と涙が溢れてきて、試合が終わった時には目は何発かもらったボクサー並みに腫れ上がり、鼻はプチトマトばりに真っ赤っ赤。
その中でも一段と輝きを放って見えたのが、小林さんでした。
女子高校野球に見た「キャプテンシー」とは
小・中と男子に混じりながら野球を続け、その才能を磨いてきた小林さん。
中学時代に両膝を怪我し、高校に入ってからも不安を持ちながらプレーしていたそうです。
高校3年の春の選抜大会後に右膝が外れるような異変を感じ、病院に行ったところ、診断は右膝前十字靭帯断裂。
「もうスポーツはできません」
と医者に言われます。
最後の夏をフィールドでプレーする事ができなくなった事実を打ち明け、皆で泣いたそうです。
「悔しいはずなのに一切表に出さず、いつも仲間を激励していた」と監督が言っていた通り、守備時にはベンチの一番前で、攻撃時には三塁コーチとしてチームを常に鼓舞し続けていました。
「芽生を日本一のキャプテンにする」とチームが一丸となった神戸弘陵高校。
4-0で高知中央高校を降し、見事優勝を果たしました。
そして、惜しくも敗れた高知中央高校。
主将の氏原まなかさんはチームの4番を任される、まさに大黒柱でした。
しかしそんな氏原さん、前触れなく発作を起こし、意識を失う事もある難病、若年ミオクロニーてんかんに長年悩まされていたそうです。
高校では寮生活の中でチームメイトが「緊急連絡係」を決め、発作が出た時は仲間に助けてもらいながら野球を続けてきた氏原さん。
「仲間に出会えていなかったら、私は野球を続けられなかった。感謝しかありません」
その感謝の気持ちを優勝という結果で返すため、こちらもチーム一丸となって戦いに挑みましたが、結果は準優勝。
「笑って終われる唯一のチーム」をスローガンに戦ってきましたが、敗れた相手の小林さんが優勝インタビューで「日本一のキャプテン」と呼ばれているのを聞いて、「その立場になりたかったな」と涙が溢れたそうです。
今後、小林さんは柔道整復師、氏原さんは看護師をそれぞれ目指すそうです。
2人に共通していたのは、【自分と同じ苦しい思いをしている人達に寄り添いたい】という気持ちでした。
キャプテンという存在の大事さを改めて考えさせてくれた、素晴らしい試合でした。
プロ野球における「キャプテン」とは何か?
このような素晴らしいキャプテンがいるチームは普段の何倍も、いや、何十倍もの力を発揮できるだろうし、それが大事な場面になればなるほどキャプテンシーでチームを救える場面というのは必ず出てくる。
これは、プロ野球の世界でも同じだと思うんです。
基本的にはどの球団もキャプテンは1、2年ごとに代わります。
ですが、本当にチームを右肩上がりで強くしていこうとするなら、この「慣習」は絶対に間違っていると思うんです。
野球は団体競技。チームの結束力というのが個々の能力以上に大事であることは言うまでもなく、その結束力を左右するキャプテンがコロコロ代わるチームが果たして常勝軍団になれるのでしょうか。
絶対になれないと思います。
現に巨人は坂本勇人がキャプテン7年目となり、坂本選手自身が慢心や驕りに陥らない限り、チームの円熟味はますますこれからも増していくでしょう。
阪神はチームというより、その選手にキャプテンを任せることで、よりその選手自身が自覚を持ってもらいたいという人選になっているので、「チーム一丸」という観点からは少しズレているように僕は感じます。
逆に、日本シリーズ4連覇中のソフトバンクは工藤監督の「選手一人一人が自分が主将だという気持ちを持って1年間戦ってもらいたい」という意向から、2018年を最後にキャプテン制を廃止。チーム状況を見ていると、その方針転換は成功しているように見えますが、今年に入ってほんの少し綻びが出てきたようにも感じます。ちなみに、工藤監督が就任した2015~2018年の4年間、キャプテンとして常勝軍団を引っ張ったのは内川聖一でした。
そして、奇しくも楽天で2015~2018年にキャプテンを務めていたのが嶋基宏。
嶋がキャプテンを務めた4年間でAクラスになったのは2017年シーズンの3位だけでした。
もちろん全てキャプテンが悪いわけではないですが、嶋選手レベルの選手だと、おそらくその責任の一端は自分にもあると自覚していたと思うし、何がダメだったのかという分析も自らの中でしているのではないか。