東京オリンピックの野球準決勝、日本対韓国戦。8回裏二死満塁から走者一掃の勝ち越しツーベースを放った山田哲人が二塁ベース上で両こぶしを突き上げるのを見て、なぜか涙がこぼれてきた──。

 日本がかつてないメダルラッシュに沸く中でこんなことを言うのは気が引けるが、実はこれまで五輪にはさほど関心を持ってこなかった。野球に関しては公開競技として20年ぶりに復活した1984年のロス五輪を皮切りに、2008年の北京五輪までそれなりに注目はしてきたが、五輪期間中もプロ野球、あるいはメジャーリーグ優先だった感は否めない。

 だが、今回はこれまでの五輪とは比べ物にならないぐらいの思い入れがある。野球が五輪競技として行われるのは、北京大会以来13年ぶりのことになるし、なにしろこの日本で開催されている大会である。ただし、筆者にとってそれ以上に大きいのは山田哲人の存在だ。

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山田哲人 ©JMPA

ヤクルト入団発表会での「18歳の抱負」

「青木(宣親)選手や宮本(慎也)選手のように、日の丸を背負える選手になりたいと思います」

 まだあどけなさの残る表情で山田がそう話したのを、よく覚えている。2010年12月のヤクルト新入団選手発表会でのことだ。当時はまだ大阪・履正社高校の3年生。司会に促されるまま「特技」の逆立ちでステージから花道を往復し、囲み取材では「滑り出し好調ッス」と笑っていたお調子者風の18歳は、その数年後には本当に日の丸を背負うことになる。

 初の代表選出は、22歳になった2014年オフの日米野球。「日本代表は子供の頃からの夢だったので本当に嬉しいです。代表としてのプレッシャーを感じながらプレーしたい」と喜びを語り、小久保裕紀監督(現ソフトバンクヘッドコーチ)率いる侍ジャパンの「八番・一塁」でMLBオールスターとの第1戦に臨むと、左に右に2本のヒットを放つ上々の代表デビューを飾った。

 自身初のトリプルスリーを達成し、ヤクルトの優勝に大きく貢献してセ・リーグMVPに輝いた2015年には、プレミア12に出場。その後も2017年のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)、現在の稲葉篤紀監督に代わった2018年の日米野球、2019年のプレミア12と、山田は侍ジャパンの常連になっていく。その一方で、2008年の北京を最後に野球が除外されていたオリンピックに対しては、他の舞台とは違う思いがあった。

「(オリンピックは)特別ですね。小さい頃から野球以外(の競技)も見てたんで、そういう大会に出たいなっていうのはありますね。オリンピックという大会自体に憧れてたんで」

 本格的に野球を始める前はサッカー、水泳、体操、空手などさまざまなスポーツに親しみ、小学生になるとテレビの五輪中継を見て柔道の田村(谷)亮子、水泳のイアン・ソープ(オーストラリア)といった金メダリストの活躍に胸を躍らせた。プロ野球の世界でスターとしての地位を築いた頃に東京五輪で野球の復活が決まると、そんな少年時代の憧憬がよみがえり“見果てぬ夢”のはずだったオリンピック出場が現実味を帯びるようになった。

五輪に関しては「楽しみではない」「でも金がほしい」

「楽しみではないですね、そこ(オリンピック)に関しては。でも、あの中で野球をやりたいです。もちろんマイナスなこととかね、『何かやらかしたらどうしよう』とか、そういうのもありますけど、それ以上にそこの舞台で試合したいっていうのがありますね。やっぱりメダルが欲しいです。オリンピックのメダルなんてなかなかないし、憧れますね。色ですか? それはもう金しかないですよね」

 目前に迫っていたオリンピックへの思いを直に聞いたのは、昨年のキャンプ前のこと。しかし、その時点で半年後に開催されるはずだった東京五輪は、急速に拡大した新型コロナウイルス感染症の影響により1年延期されてしまう。山田自身も上半身のコンディション不良などもあり、昨年は不本意な成績に終始した。

 そして迎えた2021年、シーズン開幕から不動の三番バッターとして、8歳下の村上宗隆との三・四番コンビでヤクルト打線を牽引。その村上と共に、念願の五輪出場が決まると「とにかく金メダルを取れるように、勝利に貢献できるプレーをたくさんしたいと思います」と、あらためて決意を口にした。