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2021/09/11

アメリカの香りを日本の芸能界に

「語学もそうですが、とにかく泰子ねえちゃんは前向きなんです。フレンドリーで話上手な社交家。反対に無口だったのがマー坊で、小柄なヒー坊とは違い背の高い人でした。社交性という点では、ヒー坊は2人のちょうど中間かな。ヒー坊は、いつだって柔らかくフェミニンな雰囲気だったわね」

メリー喜多川氏は、フレンドリーで話上手な社交家

 ロサンゼルスでそれぞれの青春を送る姉弟に、渡米翌年の1950年(昭和25)、突然の転機が訪れる。朝鮮戦争が勃発したのだ。アメリカでは若者たちが徴兵されたが、米国籍を持つ喜多川兄弟も例外ではなかった。米兵たちは、アメリカ占領下の日本経由で故国と朝鮮半島を往還した。戦火の半島から日本に戻ったジャニーは、アメリカには帰らず、米軍や在日アメリカ大使館関連の施設に勤務する道を選ぶ。

1950年(昭和25)、朝鮮戦争で韓国に上陸した米国軍。アメリカ国籍をもつジャニー氏も従軍した ©AP/アフロ

 一方、兄の真一はアメリカに帰国。理系の大学に進み、卒業後は宇宙航空開発製造のノースアメリカン・ロックウエルでエンジニアの職に就いた。ロサンゼルスで家庭も築いた彼は、喜多川姉弟ではただひとりアメリカで半生を送った人である(1986年[昭和61]逝去)。

 メリーが日本に戻り、ジャニーが住まう東京に根を下ろしたのは1959年(昭和34)頃。日本を出た時は21歳だったメリーも、すでに三十路を越えていた。当初は四谷でバーを経営したが、アメリカ大使館関連施設に勤めるかたわら、歌って踊れる4人グループ、「ジャニーズ」のマネージメントに多忙となった弟を補佐するためにバーを閉店する。1962年(昭和37)、ジャニーズ事務所創業。2人がその後、大成功をおさめたことは承知のとおりだ。

 メリーが頻繁にロサンゼルスを訪ねるようになるのは、ジャニーズ事務所が軌道に乗った後のことである。

「泰子ねえちゃんは、来るたびに必ず私や母を訪ねてくれました。フォーリーブスと一緒のことも多かったですね。彼らは、高野山米國別院の本堂でコンサートを開いたこともあるんですよ。フォーリーブスといえば、ター坊(青山孝)がロサンゼルスで結婚式を挙げた時には、うちの子どもたちがフラワーガールやページボーイを頼まれたりして。そうこうするうちに、泰子ねえちゃんは、ニューヨークの一等地やコロラドのリゾート地に豪華な別宅を購入して、みるみる階段を昇っていく姿が華やかでした」

高野山米國別院で歌うフォーリーブス photo courtesy of Koyasan Beikoku Betsuin of Los Angeles
フォーリーブスのメンバーとシカコさんの夫(=タエミさんの父、中央)。ロサンゼルス空港にて photo courtesy of Koyasan Beikoku Betsuin of Los Angeles

 しばしばロサンゼルスに足を運んだメリーは、テレビやショーからタレント衣装のヒントを得るなど、アメリカの香りを日本の芸能界に移植した。ノンフィクション作家、秋尾沙戸子の『ワシントンハイツ』には、高野山米國別院の年配信徒によるこんな証言が紹介されている。

「ヤッちゃんも、なんだか若い男の子を日本から連れてきていました。近くのベニスビーチでローラースケートを練習させていたことがあったわ」

 デビュー前の光GENJIのことであろう。

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