イラストレーション:溝川なつみ

「かわいいっ」

「これも、かわいいな。いっぱいあって迷っちゃう」

 長崎県波佐見(はさみ)町の観光物産館「くらわん館」。ずらり並んだ波佐見焼を前に、県内から訪れた三十歳の女性二人が食器を選んでいた。

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「料理が楽しくなるようなデザインが多いので、私達の年代には特に人気があります。波佐見焼は東京でも流行っているんですよね」

「かわいい焼き物」としてブームになっている波佐見焼だが、ほんの何年か前までは、地元を除いてほとんど知られていなかった。

 波佐見焼に関係する事業者で作る波佐見焼振興会の山下雅樹・事務局次長(41)は感慨深げだ。

「『はさみ』と言うと、だいたい切るハサミに間違われました。『焼き物です』と説明したら、今度は『どんな食べ物?』と誤解されて……。陶磁器として知名度がアップしたのは、この四、五年でしょうか」

 波佐見焼は不思議な焼き物だ。

 特徴をひと言では説明できない。カラフルでかわいいデザインは、全体の一部でしかなく、地味な茶碗や湯飲みもある。

 それだけではない。例えば、波佐見有数の窯元「和山(わざん)」では、おしゃれな生活雑貨メーカーの食器から、牛丼チェーンの丼や湯飲み、飛行機の機内食の皿まで作っている。廣田和樹社長(49)は「うちの商品数は三千〜四千ほどだと思います。多すぎて数えたことがありませんが」と笑う。波佐見ではありとあらゆる食器を作っており、焼き物としての形やスタイルがないのだ。

 しかも、美濃焼(岐阜県)、有田焼(佐賀県)に次ぐ国内第三位の産地で、出荷額は年間四十五億円以上にもなるというのに、無名だった。

 なぜなのか。その秘密を探っていくと、波佐見焼が「かわいい」になる理由が見えてくる。

「かわいい」。若い女性が目を輝かせる(波佐見町、くらわん館)

 波佐見の陶磁器生産の歴史は古い。豊臣秀吉の朝鮮出兵(一五九二〜九八年)の際、大村藩主が陶工を連れ帰ったのが始まりという。初期には質の高い青磁などを生産した。

 その後は転換に転換を重ねた。

 まず一六五〇年代、中国が内乱で陶磁器輸出をストップさせると、空隙を狙って東南アジア方面に鉢などを大量に輸出した。「当時の日本では使われていない食器でした。それでも商人が求めればどんどん生産しました」と山下次長が解説する。

 一六八〇年代、内乱の収まった中国が海外市場を取り戻すと、国内向けに安価な日用食器を作った。江戸後期には百メートルを超える巨大な登り窯が八つも同時に稼働し、波佐見産の食器は全国で流通した。

 ところがこの時代、「波佐見焼」は存在しなかった。搬出港が佐賀県の伊万里だったために「伊万里焼」と呼ばれていたのだ。「紀伊の商人が扱えば『紀伊焼』、筑前の商人なら『筑前焼』と呼ばれて流通したケースもあります」と同町教育委員会、中野雄二学芸員(51)は話す。

 隣の佐賀県有田町で明治期、有田駅が開業して鉄道での出荷が始まると、「有田焼」として流通した。

「名は何であれ、市場の求めに応じて、とにかく売れる食器を安く作ってきました」と山下次長は語る。実を取る商売をしてきたのだ。

 壁にぶつかったのは、バブル経済の崩壊後だ。市場の縮小に加え、安価な中国産品や、プラスチック製品など様々な材料の食器に押された。食も多様化し、従来型の「唐草模様の茶碗」(廣田社長)を置く百貨店や量販店では売れなくなった。

 経営が苦しくなった有田焼の産地からは、波佐見に「有田」の名称を使わせないようにする動きも出た。その煽りで、四百年強の歴史で初めて「波佐見焼」と名乗ることになった。十年ほど前のことだ。

「もう崖っぷちでした」と焼き物問屋「西海(さいかい)陶器」の会長で、波佐見焼振興会の会長も務める児玉盛介さん(68)は振り返る。

「何とかしよう」と三人が動き出した。児玉さん、小さな問屋を営む深澤清さん(75)、そして一瀬政太町長(74)だ。「窯業という核を使って何かできないか」(児玉さん)、「窯業に替わる産業を起こそう」(深澤さん)と知恵を絞り、農業や陶芸が体験できるツアーを仕掛けるなどしたが、起爆剤にはならなかった。

 そんな時、若い陶芸家が町を訪れた。東北芸術工科大(山形市)の大学院修了後、東京芸大の研究生としても作陶してきた長瀬渉さん(40)だ。二〇〇三年のことだった。

 長瀬さんはさらに焼き物を学ぼうと、韓国への移住を考えていた。その前に一年間、妻が佐賀県立有田窯業大学校(有田町)で絵付けを勉強することになり、隣の波佐見町に住んだのだ。児玉さんの娘が大学の後輩で「住んでみたらどうか」と勧められたのもあった。ただ、長瀬さんはそれまで「波佐見焼」という名を聞いたことがなかった。陶芸家にすら知られていなかったのである。