人が関心を持ち夢中になるのは、いつだって個人的なこと。大切なものはすべてそこに含まれているのだ。そんな確信をもたらしてくれる展示が、東京都写真美術館での「長島有里枝 そしてひとつまみの皮肉と、愛を少々。」展。
1990年代、ガーリー・フォトブームの代表格に
写真家、そして『背中の記憶』などの著作を持つ文筆家としても知られる長島有里枝は、1990年代にアートコンペ「TOKYO URBANART#2」でパルコ賞を受賞してデビューした。その際の出品作は、彼女の家族が自宅の中で全裸になった姿を収めた「家族ヌード」だった。
セルフヌードを含む作品は、大きな反響を呼ぶ。写真や美術の世界を超えてメディアに大きく取り上げられた。彼女の登場を機に、若い女性がプライベートな被写体を撮る「ガーリー・フォト」ブームがしばし沸き起こった。
HIROMIXや蜷川実花といった写真家も、その流れで名が広く知られるようになったのである。
ブームには我関せずの態度を貫きながら、長島有里枝は着々と作品を生み出し続けた。自分自身や家族、友人たちの飾らぬ姿を収めたスナップショットは新鮮だった。彼女以前、そんな何ら特別じゃない身近なものなど、作品のモチーフになるとは思われていなかったから。
2000年代に入っても、彼女の歩幅やペースは変わらなかった。ともに暮らした男性を長らく撮り続けた「not six」。他人同士を組み合わせて、あたかも身内の者の記念撮影であるかのような写真にする「Family Portraits」。息子とスイスにしばし滞在したときの事柄を繊細な手つきでカメラに収めた「SWISS」。みずからが築いてきた家庭の細部を写した「家庭について/about home」。多彩な作品が生まれ出た。
身近な疑問から作品が生まれる
身近なものごとにカメラを向けて四半世紀、長島有里枝の歩みを丸ごと知ることができるのが今展だ。初期の家族ヌードから、周りの人を構えることなく慈しむように撮ったスナップショットの最新作までが一堂に集まっている。
会場を巡りながら思う。生活の感覚や個人に根ざした表現は、たとえぱっと見が地味だったとしても、芯がしっかり太くて強い。長島有里枝がカメラを構える動機は、おそらくずっと変わっていない。「家族ってなんだろう」「女性である自分って何?」など、彼女は身の回りの出来事、関係、存在がいちいち気になる。それらを放っておかず、疑問を解いてみたくなって、カメラを持ち出し写真を撮る。その探索の足跡が、のちに作品となっていくのだ。
虚勢など入る余地のない、たしかな手応えを持った写真ばかり。そこには彼女の愛すべき日常、彼女が呼吸していた場の空気がちゃんと捉えられ、閉じ込められている。もしも百年後の未来にだれかが、2000年前後の日本の雰囲気を知りたいと願ったとしたら、長島有里枝の写真をそっと差し出してあげるのがいいんじゃないか。
身の回りを見つめ続けて、普通を普遍に化けさせている彼女の写真に見惚れてほしい。