「早大生 リンチで殺される」「革マル派が犯行発表『戦車反対集会でスパイ』」「教室で犯行 東大に遺棄」「早大教授ら 現場へ行ったが警察には届けず」……。1972年11月9日。早大生による早大生への凶行を報じる鮮烈な言葉が新聞各社の紙面を賑わせた。いったい大学内で何があり、このような事態につながってしまったのだろうか。
ここでは、ジャーナリストとして活躍し、当時、自身も早稲田大学の学生として政治セクトによる理不尽な「暴力支配」と闘った樋田毅氏の著書『彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠』(文藝春秋)の一部を抜粋。事件の詳細を振り返る。(全2回の1回目/後編を読む)
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暴力を黙認していた文学部当局
キャンパス内で革マル派による暴力が頻発する状況に、文学部当局はどう対応していたのか。
一言でいえば、見て見ぬふりをしていた。これだけ暴力沙汰を起こしているにもかかわらず、文学部当局は革マル派の自治会を公認していたのだ。
当時、第一文学部と第二文学部は毎年1人1400円の自治会費(大学側は学会費と呼んでいた)を学生たちから授業料に上乗せして「代行徴収」し、革マル派の自治会に渡していた。
第一文学部の学生数は約4500人、第二文学部の学生数は約2000人だったので、計900万円余り。本部キャンパスにある商学部、社会科学部も同様の対応だった。
第一文学部の元教授は匿名を条件に、こう打ち明ける。
「当時は、文学部だけでなく、早稲田大学の本部、各学部の教授会が革マル派と比較的良好な関係にあった。他の政治セクトよりはマシという意味でだが、癒着状態にあったことは認めざるを得ない。だから、川口大三郎君の事件が起きて、我々は痛切に責任を感じた。革マル派の自治会の歴代委員長は、他のセクトの学生たちと比べると、約束したことは守った。田中敏夫君も、その前の委員長たちも、我々に対する時は言葉遣いも紳士的で、つまり、話が通じた。大学を管理する側にとって、好都合な面があった。しかし、事件後は、革マル派との癒着状態から脱することに奔走した。革マル派との縁を切ることは、文学部教授会の歴代執行部の共通した認識となった。民青の学生たちについても、共産党員の教授たちと通じている面があるため、別の意味で警戒の対象となっていた」
大学当局は、キャンパスの「暴力支配」を黙認することで、革マル派に学内の秩序を維持するための「番犬」の役割を期待していたのだろう。