昭和の終わり頃、東京・山谷のドヤ街ではヤクザと過激派が全面衝突し、「金町戦」とよばれる血にまみれた抗争が起こっていた。なぜ彼らはこの街で全面衝突を余儀なくされたのだろう。

 ジャーナリストとして活動する牧村康正氏の著書『ヤクザと過激派が棲む街』より、当時の関係者たちの証言を引用し、“戦争”のあらましを紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)

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山谷のドヤ街で起きた「金町戦」

「ヤクザ」と「過激派」――ともに暴力を肯定し、組織の実体を明かさず、ときに法を無視する集団である。

 その両者が、かつて東京都内の一角で本格的な抗争を起こした。博徒の老舗組織として名高い日本国粋会金町(かなまち)一家と、戦闘的な労働争議で知られる山谷(さんや)争議団の衝突である。時代はバブル直前の1983年、戦場となったのは一万人近い日雇い労働者が暮らす山谷のドヤ街である。金町一家と山谷争議団はたがいに相手組織の壊滅を叫び、二人の死者を出すほどの激しい戦いが続いた。「金町戦」あるいは「金町戦争」と呼ばれるこの戦いは、いまなお正式な終結に至っていない。

 山谷争議団は当初この戦いを左翼と右翼の政治的な対決と見ていた。なぜなら、金町一家の傘下組織である西戸(にしど)組が右翼結社・皇誠会(こうせいかい)を創設し、最前線に押し出してきたからである。

 しかし抗争勃発の直後、山谷を管轄する浅草警察署の幹部はこう語っている。

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「いやあ、実際はシマ争いみたいなものなんですよ」(東京新聞1983年11月8日)

 ヤクザ同士の抗争ならともかく、ヤクザと過激派のシマ(縄張り)争いとは、いったいなにを意味するのか。しかし、この不可解なコメントが、じつは本質を言い当てていることが戦いの過程で徐々に判明する。

 金町戦の経緯を述べる前に、まずは過激派について説明を加えておくべきだろう。

「過激思想をもつ党派・一派。ロシア革命以後用いられるようになった語」(大辞泉)

「マルクスやレーニンなどの理論をもとに、革命で共産主義体制の実現を目指す集団。爆弾や時限式発火装置を使った暴力もいとわず、警察は『極左暴力集団』と呼ぶ。警察庁によると、ピークの1969年には約5万3500人いたが、現在は約2万人」(朝日新聞2017年12月21日)