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党派組織へのアンチテーゼとしての“徒党”

 党派には、それぞれ自分たちが革命を主導する前衛党であるべきだ、という意識があります。だから前衛党争いで内ゲバが起きたりする。左翼のなかの権力争いですね。ただし自民党だって同じことで、政治組織であればみんな権力闘争をしますよ。でも無党派は権力志向がないから組織の拡大や継続を意識しない。一定の役割を終えたら消えてしまってもいいし、また必要になったら集まればいい、という感じでね。そのあたりが徒党たるゆえんじゃないかと僕は思うんです。それに徒党集団は、活動家ということへの意識も違いますよね。活動家をそんなに偉そうなものだとは思っていない。自分は活動家だ、と言えばその日から活動家ですからね。まあ、徒党は、左翼でも批判されるんですけど」

「徒党」という言葉は「よからぬことをたくらむ一味」あるいは「ならず者集団」という意味合いを持つ。ただし三枝が言う徒党は、無党派活動家としての自負に近い。つまり、権力争いの呪縛から脱けきれない党派組織へのアンチテーゼである。その場合、左翼の意識を持ちながら権力を目指さない集団はどのようにモチベーションを維持するのか。

釜ヶ崎の闘争から学んだ“対ヤクザ”の戦術

「山谷争議団はヤクザを撃退した釜ヶ崎(大阪市西成区)の闘争から具体的な戦術を学んでいました。その効果は絶大で、ケタオチの(とくに条件が悪い)飯場(はんば)に対する押しかけ団交(団体交渉)では連戦連勝だったんです。悪質な手配師もずいぶん吊し上げましたから、狙われた相手は恐怖にかられたはずですよ。

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 でも僕らは活動が次第にマンネリ化してきたと感じていました。無党派集団の特徴として、瞬発力はあるけど継続性には欠けるんですね。そこが党派の組織と違うところです。少したるんでいた時期に皇誠会が右翼の旗を掲げて登場してきたので、争議団としては一気に引き締まった感じです」

 三枝が語る山谷争議団の姿は意外でもあり、新鮮でもある。左翼的な教条主義がおよそ感じられないからだ。この集団に、のちほど紹介する個性豊かな無党派活動家が集まってきたのもうなずける。ただし争議団が業者・手配師を追いつめれば追いつめるほど、その背後にいるヤクザは危機感を持つ。争議団の敵は悪質業者であってヤクザそのものを敵としていたわけではないが、結果として両者はつねに緊張関係にあった。

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“狂信的”と見られるようになっていた新左翼たち

 山谷での闘争は復活したものの、80年当時、新左翼は社会から完全に孤立していた。70年代に入って以降、連合赤軍のリンチ殺人、中核派と革マル派の内ゲバ殺人、東アジア反日武装戦線の爆弾闘争など、一般市民の理解を超える凄惨な事件が相次いだからだ。新左翼は次第に狂信的なカルト集団と見られるようになった。そういった社会からの視線は活動家たちも自覚していたことである。

日雇い労働者としての尊厳をかけた戦い

 山谷争議団の戦闘隊長だった通称「キムチ」は言う。

「俺らは二十代の若いころに新左翼の暗黒時代を経験している。争議団と支援のメンバーは一癖も二癖もある活動家ばかりだったけど、金町戦のときには、みんな少しは大人になっていて分別があったと思う。赤軍派でも連赤(連合赤軍)を批判して大衆運動にシフトしていく者が多かった。俺は何度か山谷に出入りしたけど、84年に山谷へ戻った当初は地道に労働運動を学習していた。だけど、俺は親代わりのような人を金町一家に殺された。その事件がきっかけで、一度は活動から離れていた俺が争議団に復帰したわけだ。でもそれは復讐のためじゃない。争議団を守るためだった。俺にはそういう個人的な事情もあったけど、金町戦の本質は、日雇い労働者としての尊厳を懸けた戦いだった。自分たちの命と生活を懸けた戦いだったんだ」

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 活動家として武闘派のイメージが強いキムチだが、たまたま遊学する機会を得たために海外渡航歴があった。それが理由となって、国際的に活動していた日本赤軍(最高責任者・重信房子)との関係を公安に疑われ、厳しくマークされた時期がある。しかし金町戦における冷静な采配は、海外体験で得た幅広い知見によるところが大きいという。なお山谷争議団と東アジア反日武装戦線は間接的ながらつながりがあった。