過激派は総じて新左翼主義者の集団である。その主張は各党派によってさまざまだが、議会戦略に転じた共産党、社会党などの既成左翼に対し、新左翼は暴力革命路線を捨てていない点で一致している。団塊世代には中核派、革マル派、赤軍派などの党派名がなじみ深いはずだ。なお、左翼陣営における党派間の確執などは本文にて随時記述する。
他方、新左翼には無党派(ノンセクトラジカル)の活動家も存在する。山谷争議団は無党派が主体の集団であり、党派組織とは対照的な特徴を持っていた。したがって前記した過激派の定義がそのまま当てはまるわけではない。しかし、その発想や行動が「過激」だったことに間違いはなく、それゆえにヤクザと渡り合えたことも事実なのである。
抗争前夜の状況
山谷争議団の初代代表・三枝(さえぐさ)明夫が抗争前夜の状況を語る。
「やられたらやり返せ」の過激な精神
「山谷争議団は1981年10月に結成されました。70年代初期に山谷で活動していた現闘(現場闘争委員会、通称・ゲントー)というちょっと型破りな労働組織があって、『やられたらやり返せ』をスローガンに悪質業者と闘っていました。ところが73年のオイルショックで山谷の仕事が激減したため、75年には解散状態になっていたんです。景気回復で山谷に戻ってきた元現闘のメンバーを中心に、ほかの組織や有志が集まって争議団ができたわけです。
元現闘のメンバーが『6・9闘争の会』を立ち上げたことも再結集の大きな要因です。この会は、79年6月9日にマンモス交番(山谷地区交番)の警官を刺殺した活動家・磯江洋一さんを支援する団体です。磯江さんがやったことの評価は別として、寄せ場の活動には情熱を持っていた人ですから、むかしの仲間を刑務所の外から支えようということですね。
『6・9闘争の会』も無党派の集まりでしたが、無党派というのは一人一党という意味で、無党派という組織があるわけではありません。争議団には党派の人間もいましたが、いろいろな傾向を持った雑多な人間の集まりでした。だから組織性はないんです。組織性がないのに『やられたらやり返せ』の過激な精神だけは現闘から引き継いでいるので、僕なんか争議団はある意味で徒党の集団だったんじゃないかと考えています。