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「命だけは助かるだろう」と思っていた貴族たちを次々と処刑…承久の乱を終えた北条義時が行った“過酷すぎる戦後処理”の実情

『北条氏の時代』より #2

2021/12/04

source : 文春新書

genre : エンタメ, 読書, 歴史

 さらに特筆すべきは承久の乱がもたらした経済的利益でしょう。朝廷の側についた武士などの3000カ所ともいわれる荘園の権利を幕府が没収し、幕府方の武士への恩賞として分配したのです。

 治承・寿永の乱(一般的には源平合戦と呼ばれます)の際に源氏が手に入れた平家の荘園は約500カ所でした(平家没官領)。今回はその6倍に及びます。特に西国の武士や貴族の荘園であったため、地頭になった幕府方の武士が西国に進出することになります(西遷御家人)。これによって鎌倉幕府は東国だけを押さえる地方政権から全国政権への大きな一歩を踏み出しました。

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 こうした所領の分配は事実上、北条氏によって行われたので、北条氏と御家人の関係が変化したこともあげられます。「俺たちに土地を保証してくれるのは将軍ということになっているけど、こんど土地をくれたのは北条だ」というわけです。実際にこの前後から御家人の中でも、将軍だけでなく北条氏にも個人的に仕えるような者が出始めました。彼らを「御内人」といいます。

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 また、幕府は京都に「六波羅探題」を設けました。この機関は、幕府の出張所で、西国の監視や情報収集、裁判、さらには朝廷との交渉を行うなど非常に重要な役割を担います。探題は北方、南方にそれぞれ一人ずつが任命されましたが、北条氏の中でも指折りの人材が就任しています。北条泰時や極楽寺(北条)重時(1198~1261)のように、京都で政治力を養い、鎌倉に戻って、幕府の中枢に上るパターンも見られるようになります。

【前編を読む】《2022年大河ドラマ》“口封じ”こそ北条氏の“お家芸”? 父親に代わり「鎌倉の新たな支配者」となった北条義時がみせた驚異の政治手腕

北条氏の時代 (文春新書 1337)

本郷 和人

文藝春秋

2021年11月18日 発売

「命だけは助かるだろう」と思っていた貴族たちを次々と処刑…承久の乱を終えた北条義時が行った“過酷すぎる戦後処理”の実情

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