朝廷側に加わった御家人のなかには、大番役などでたまたま京都にいたため、参加したものもいました。東国には、兄弟や親族などが残っている場合が多く、普通なら彼らが助命嘆願したように考えてしまいます。しかし現実は違いました。朝廷側に加わった者の首を取れば、その領地が恩賞としてそっくり手に入るのですから、むしろ身内に対して極刑を望む者もあらわれたのです。
官軍に加わって処刑された佐々木広綱の子、勢多伽丸は、まだ11歳の少年でした。さすがに占領軍の総大将だった泰時も彼の命は助けようとします。ところが、叔父の佐々木信綱(1180?~1242)が「自分の恩賞はいらないから、勢多伽丸を殺してくれ」と懇願します。泰時は手柄を挙げた信綱の必死の願いを受け入れざるを得ません。結局、勢多伽丸は首を切られました。兄の一族が滅んだことにより信綱は、佐々木氏本家の棟梁の地位を手に入れます。さらに一族の本拠地である近江の佐々木庄の地頭にもなりました。ちなみに、彼の末裔は近江で勢力を伸ばし、鎌倉幕府の末期には、婆娑羅大名として知られる佐々木道誉(京極高氏)が登場します。
後鳥羽上皇を流罪にする
朝廷にも処罰の範囲は広がりました。幕府は後鳥羽上皇の近臣だった一条信能、藤原光親、藤原宗行、源有雅たちを斬首し、藤原範茂は自害に追い込まれました。また、少なくない貴族が追放されるなど、厳しい処断がくだりました。
武家が貴族たちの刑罰を決めて、次々と処刑していくというのは、前例のない、タブーを破る行為でした。貴族たちもどこかで、「なんだかんだ言っても命だけは助かるだろう」くらいに思っていたはずです。しかし、義時は甘くなかったのです。