いまから25年前のきょう、1992(平成4)年11月23日午後、ピアノ調律師の鈴木嘉和が、滋賀県の琵琶湖畔からヘリウムガス入り風船を計26個装着したゴンドラ「ファンタジー号」に乗り、飛び立った。鈴木は上空のジェット気流に乗って、50時間をかけて太平洋を横断し、アメリカに渡るつもりでいた。
「風船おじさん」こと鈴木はそれ以前より、風船を使った“空中散歩”を繰り返していた。1989年の横浜博覧会では、来場者を乗せて飛行も行なっている。風船によるアメリカ行きの発想は、同志社大学の工学部教授だった三輪茂雄の申し出から生まれた。三輪は、日本の美しい海岸にある「鳴き砂」の保存を提唱しており、それをアメリカの人たちにも訴えるため、風船でメッセージを届ければ効果があるだろうと考え、鈴木に話を持ちかけたのだ。これに乗り気となった鈴木は、鳴き砂のある島根県仁摩町(現・大田市)の仁摩サンドミュージアムを出発し、米ネバダ州リノに着陸するという計画を立てた。そのために運輸省やアメリカの航空局に飛行の申請をしたものの、なかなか許可は下りなかった。
23日の琵琶湖畔での飛行は実験の予定で、午前から三輪教授や報道関係者が集まるなか行なわれていた。だが、鈴木はその日2度目の実験飛行にのぞもうとしていた午後4時20分頃、突然「行ってきます」と言って、自ら係留ロープを外す。「どこへ?」と三輪が訊くと、「アメリカですよ!」と答え、重り代わりの沖縄焼酎200本分を地上に投げ落とすと、そのまま上昇したという(関川夏央『人間晩年図巻 1990-94年』岩波書店)。ファンタジー号には、48時間分の酸素ボンベ、1週間分の食料のほか、各種の計器、携帯電話、毛布、パラシュート、撮影機材などが積みこまれ、また成層圏の低温対策として、鈴木はあらかじめ魚の冷凍庫で試した防寒具に身を包み、準備は万端のはずだった。
離陸後も鈴木は携帯電話で何度か東京の自宅と連絡をとっており、翌朝6時すぎには、朝焼けに感動して「きれいだよー、見せたいよー」と夫人に伝えてきたという。しかし飛行3日目の25日午前、ファンタジー号からSOS信号を受けた第三管区海上保安本部の哨戒機により、宮城県金華山沖の東800キロ、高度2500メートルで確認されたのを最後に消息を絶った。
ピアノ講師だった夫人は後年、「彼(鈴木)にとって、風船は音楽なのだ」と書いている(石塚由紀子『風船おじさんの調律』未來社)。鈴木は、ピアノの調律のため障害者施設を訪れたのをきっかけに、身障者のリハビリとなるよう、ピアノ練習用のマイナスワンテープをつくったり、身障者とオーケストラの協演を実現させたりしていた。彼は音楽を通じて身障者からやる気を引き出したように、風船を飛ばすことでもまた、大勢の人々に勇気を与えられると信じていたのだろう。