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奇跡とは人の熱意が生み出すのかもしれない

 当時の若手芸人のライブは本当に安っぽかった。パソコンがまだそこまで普及していなかったので、カラーでデザインされたチラシなんてものは少なく、なんなら手書きのチラシがほとんどであった。バナナマンの初単独のチラシもワープロで打ったものを印刷しただけだった。幕間の音楽もいい加減なものが多く、今では当たり前の幕間映像も当時はやっている人がほとんどいなかった。映像編集ができる家庭用のパソコンもなく、映像を作りたいならテレビ番組同様に編集所に入るしかなかったのだが、そうなると結構なお金がかかったからだ。

 僕は将来、自分がやるであろうコントライブに備えて、当時ウン十万したパワーマック(今のマックブックと比べても100分の1も性能がない)を借金して購入した。

 設楽さんは「若手のコントライブがダサい」ということには共感してくれた。

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 チャンス! ここで僕は「自分はこんなことができる」と必死にアピールした。

「いろんなパターンのコントを書くことができます」

「パソコンを持っているからデザインができます」

「なんなら映像も作れます」

「音楽をたくさん知ってるからいい音楽をセレクトできます」

 基本はほとんどハッタリだった。パソコンは買ったばかりでまったく使いこなせてはいない。しかし、勉強すれば自分が影響を受けた作品と同じようなことがやれる。今はできないけど未来の自分はできると信じ、さも今やれる風な言い方でアピールした。

「だから……僕と一緒にライブやりましょう!」

 奇跡とは人の熱意が生み出すのかもしれない。数ヶ月後、僕はバナナマンと一緒にユニットライブを行うことになる。

©iStock.com

なんで僕と一緒にユニットコントライブをやってくれたのだろうか?

 今になって思うことがある。設楽統は、あんな嘘臭いプレゼンで人を信用するような男ではない。では、なんであの時、僕と一緒にユニットコントライブをやってくれたのだろうか?

 聞いてみたのだが、設楽さん本人も理由はわからないらしい。これは僕の推測なのだが、実はバナナマンが『バカ爆走』にゲスト出演したのはその後も含めて、あの1日しかない。なぜかというとあの名作コントをはじめた瞬間、ボキャブラ芸人目当てで来た客たちは興味を失い、最前列の客などは飲みかけのペットボトルをステージの上に置いて、雑談をはじめたのだった。その瞬間バナナマンは「こんなライブにはもう出ない」と決めたらしい。そんな日に僕の「すり寄り作戦」が決行されたのだ。なんなら僕は舞台袖からその時のコントを見ていたが、単純にそのクオリティに感動し「すごかった」という印象しかなかった。客の態度の悪さに腹を立て「二度とこのライブには出ない」と思った次の瞬間、どこの馬の骨かわからない男が「大好きです! 僕と一緒にライブやりましょう!」と言ってくる。これはもしかして、フラれてヤケクソになった女性がそれまでなんとも思ってなかった男と付き合うという奇跡のタイミングだったのかもしれない。あくまでも推測の話なのだが……。