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ライブ中、足に激痛が走り...

 なにはともあれ、僕の作戦は成功し、1997年6月にバナナマン、長井秀和、オークラ、そしてラブタンというフリーの女優さんで『ピンクマニュアルズ』というユニットライブが行われることになった。

 ライブとなれば最初にやることはチラシ作りである。初めてのチラシは出演者5人の写真を載せて、タイトルと情報を入れるだけだったのだが、スマホはもちろんなく、デジカメもそれほど普及していない。だから、普通に撮った写真をスキャナーでパソコンデータとして取り込むわけだが、それもなかなかうまくいかず、1週間もかかってしまった。当然、映像制作なんて夢のまた夢だ。設楽さんに「映像とか使うの?」と聞かれたが「できるんですけど、それをするにはまだちょっと……ごにょごにょ……」と曖昧にごまかし、それはまた次の機会で、とだましだましライブ制作は進んでいった。自分の演技が下手過ぎて、自分の書いた台本の芝居をバナナマンに演技指導をされるなんてこともあったが、とにかく自分の書いた台本を演じてもらえることがうれしくて仕方なかった。まったく規模は違うが「自分のシティボーイズライブができる」と興奮し、中高大、どの時代の学園祭よりも自分にとっては青春感があり楽しかった。

 しかし、不幸というのは幸せな時間にやってくる。

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 ライブ中にバナナマンとふざけてプロレスごっこをしていたら、足に激痛が走り痛みで立てなくなってしまったのだ。病院に直行すると医者から「筋肉の筋を切ったみたいです」と告げられた。

「でも、舞台に立てるんですよね?」焦った僕は、医者に詰め寄ると「中身にもよりますが、どんなことするんですか?」と聞かれ、僕はコントの内容や自分の動きを事細かに説明すると「やめた方がいい。安静にしてください」と言われた。

 冗談じゃない。せっかくつかみ取ったバナナマンとのユニットコントライブ、絶対に諦めるわけにはいかない。僕はみんなにそのことを内緒にしてテーピングで足を固め、痛み止めを飲んでライブに出演した。

 ライブは大成功で幕を閉じた。

 打ち上げの席、みんなでひと言ずつライブの感想を言っていく中で、僕は思わず医者から出演を止められたことを告げたら、一同に「知らねーよ。お前が悪いんだろ」という顔をされたのだった……。

 とはいえ僕の夢である「さまざまなカルチャーが融合するコントライブを作り上げる」の第一歩はここからはじまった。こんな幸せな夜はない。本当にそう感じた。

【前編を読む】「なぜ? これにいつ気づいた?」「ネタは何本あるんだ?」“3人目のバナナマン”と呼ばれる放送作家が“才能に驚愕”した芸人とは

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