1994年、ダウンタウン旋風が吹き荒れる中、お笑いコンビとしてデビューしたオークラ氏。しかし、才気あふれる芸人たちを前に「俺が一番面白い!」という自意識は砕かれ、己の限界を知る。そんな中、所属事務所の社長からかけられた「お前は芸人より作家が向いている」の一言。まだ芸人としての夢を諦めきれなかったオークラ氏は、どのようにして作家としての第一歩を踏み出したのだろうか。

 ここでは、同氏が自身の“青春時代”を振り返った『自意識とコメディの日々』(太田出版)の一部を抜粋。現在は人気放送作家として活躍するオークラ氏の下積み時代を紹介する。(全2回の2回目/前編を読む)

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細雪の分解

 人力舎に入り数ヶ月。

「シティボーイズのようなコントライブがやりたい」

「カッコいいコントライブがやりたい」

 そんな思いも空しく、ネタを作るもボキャブラブームに乗って詰めかけた客にはハマらず「自分の笑いがわからない客はクソ」、「芸人にウケればいい」とよりマニアックなネタを作ってしまう典型的な腐り芸人のスパイラルにハマり出していた。

 僕は少し腐りはじめてきたが、相方のAさんの方はもっとヤバくなってきていた。僕はこの時、23歳だったが、Aさんは10個上の33歳。人力舎の芸人はほぼ僕と同世代。Aさんは誰とも友達にはなれず、いつも楽屋では居心地が悪そうにしていた。ネタもハマらない、楽屋でも居心地が悪い、Aさんはみるみるやる気を失っていき、だんだんネタ合わせにもサボって来ない日が増えていった。僕はそんなAさんの態度にイライラを募らせていった。

 そんなある日、僕は人力舎の社長(先代、故玉川善治氏)に呼び止められた。

「お前は芸人より作家が向いている」

 そう言うだけ言って、理由も述べず去っていった。社長は事務所に来ては、仕事もせずにただ漫画や小説を読んでいるだけの温厚な人だったが、たまに若手芸人のネタを見てはアドバイスを言い、そのアドバイスが結構的確だったので、生意気な芸人たちも社長には一目置いていた。

 だとしても「芸人より作家に向いている」、「わかりました。じゃあ芸人辞めます」と簡単にはいかない。たしかに細雪はスランプだったし、この頃、演者よりも三木聡、宮沢章夫、三谷幸喜などの書き手の名前に興味は湧き出していた。それに加え、前年、自分の書いたコントを日村さんが読んでビックリするくらい面白くなったという手ごたえもあった。どうすればいいんだろう。そうこう考えているうちに1つの構想というか願望が浮かび上がった。

「バナナマンと一緒にユニットコントがやりたい」

 こうすれば芸人を続けながら、バナナマンのネタを書くという作家業もできる。一石二鳥だ。しかし、今やバナナマンは東京若手ライブシーンのビッグネーム。僕と一緒にやる意味なんかない……とウダウダ考えててもはじまらないので僕は早速1つの目標を掲げた。

 よし、とりあえず、バナナマンにすり寄ろう。