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歌舞伎町のディスコ事件で「お前の名前が出てきた」

――トントン拍子で有名になられて。

SAM いや、実際には全然そんなことなくて。デビュー曲の歌詞の中に「朝まであなたとディスコで踊る」みたいな内容があったんですが、ちょうど同じ年に「新宿歌舞伎町ディスコナンパ殺傷事件」という未解決事件が起きたんです。それで歌詞がよろしくない、となってA面とB面を差し替えることになり、デビュー曲もまったく売れず。

――しかも歌舞伎町のディスコは、当時のSAMさんの根城だったわけですよね。

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SAM 犯人が捕まらなくて容疑者のモンタージュ写真が出回ったんですが、それが髪型を含めて、当時の僕にそっくりで。「聞き込みをしたらお前の名前が出てきた」と、警察の取り調べも受けました。「お前、この日どこにいた」「ディスコにいました」「やっぱり歌舞伎町のディスコか」みたいになって。今でこそ笑い話ですが、これは本当に参りました(笑)。

――前途多難の船出だったんですね。

SAM 一発目のデビューが失敗した後、今度は「リフラフ」という名前に変えて再デビューして。それなりに名前も出るようになったんですが、たのきんトリオの全盛期で、テレビに全然出られない。そもそもなんで僕がアイドルになったかというと、テレビに出られれば世の中にもっとダンスを広められると思ったからでした。なんか思っていたのと違うなと。

「お前は“バックダンサー”になって後ろに回るのか」

日本工学院のダンスパフォーマンス科で学生に直接指導しているというSAMさん。学内のスタジオで

――今でこそ子どもにとっても憧れの職業になっていますが、当時の「ダンサー」はどのような存在だったのでしょうか。

SAM 結局、徐々にメンバーの熱も冷めていき、自分もダンサーとしての道を極めたいと思ってニューヨークにダンス修行に行くことになるんですが、「アイドルをやめてダンサーになる」と言ったとき、事務所の人から「お前はバカか」と言われました。「いま前で歌えているのに、お前は“バックダンサー”になって後ろに回るのか」と。完全に黒子的な扱いでしたね。前で歌わないと売れない、稼げないという意味でもあったと思います。

――ところでSAMさんは高校卒業の18歳以降、就職とかはせずにダンス一本で生きてきたわけですよね。この間、確定申告なんかはどうされていたんですか。

SAM 25、26まで親の扶養家族でした。親に聞いたら「まだ扶養でいいよ」と言ってくれて。家は半分勘当されていましたが、家族の中で母親が守ってくれていたんです。親父とはなかなか溝が埋まらなかったけど、ダンスの道に行きたいと言ったとき、「どうせやるなら真面目にやれ」と送り出してくれました。この一言は今もずっと心に残っていますね。

 ただ弟が勉強してないと、「はるちゃんみたいになりたいの?」と言って家族がたしなめていたらしいですけど(笑)。

写真=榎本麻美/文藝春秋

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