――ダンスのどんなところに心を奪われたのでしょう。
SAM きらびやかな空間の中、ダンスの上手い人がフロアに躍り出た途端、周りがわーっと注目して……完全にスターですよね。
当時はフォーリーブスやJOHNNYS' ジュニア・スペシャルといったアイドルグループのダンスくらいしか見たことがなかったので、ディスコダンスのかっこよさに一瞬で魅了されました。
――ディスコに夢中になると、学校からは足が遠のきそうですね。
SAM 学校は寝に行く場所になりましたよね。歌舞伎町のディスコに通うようになっていたんですが、ディスコに5時までいて、新宿の喫茶店で7時まで時間を潰し、そのまま駅のコインロッカーに置いていたカバンを持って目白の学校に行く、みたいな生活でした。
「学校も嫌だし、勉強も嫌」15歳の家出と父からの一言
――医者の道から外れていくSAMさんを、家族はどのように見ていましたか。
SAM 15のときに一度家出をしたんです。学校も嫌だし、勉強も嫌。とにかく自由になりたい一心で。まあ、すぐに連れ戻されたんですけど。そのとき親父から、「居場所を伝えること、学校に行くことだけは守れ」と言われて。
そんなことくらいで自由になれるならラッキーと思って、どんなに遊んでも学校だけはちゃんと行くようになりました。
――SAMさんの本名は「正温(まさはる)」ですよね。「SAM」は「正温」をもじったネーミングなのでしょうか。
SAM 当時のディスコの常連って、ジミーとかトミーとか、外国人のあだ名を付けあっていて。その流れで僕はなぜか「サム」になりました。16、17からずっと「SAM」です。
その頃からレコード会社の洋楽部の人たちから新譜のキャンペーンを任されるようになって。当時「ミッキーマウス」というダンスチームを組んでいたんですが、歌舞伎町ではそれなりに有名だったんです。毎日歌舞伎町のディスコに通っていましたが、それは本当に「踊るため」。今考えると女の子にも結構声をかけられていましたが、まったく興味がなかったんです。
――当時のディスコって、たぶん皆そっちが目的ですよね。
SAM そうなんですよ。僕らは女の子をナンパするっていう頭もなかったですね。だからかなり暑苦しい集団だったと思います(笑)。
アイドルでデビューした20歳の頃
――硬派なミッキーマウスだったんですね。その後SAMさんはアイドルでデビューされますが。
SAM 当時DJを20人くらい抱えていた「全国ディスコ協会」という、ちょっと怪しげなネーミングの団体があって。そこの会長だったドン勝本さんという日本ディスコ界の草分け的な方に声をかけられて、ショータイムに踊るためのダンサーチームに入ったんです。
全国のディスコを巡業する中で、さらにチームにボーカルを入れてデビューさせよう、みたいな話になっていって。それが20歳のとき、1982年の話です。