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 中年の投影だけではない宮崎監督の『紅の豚』

『紅の豚』製作前、スタジオジブリは『おもひでぽろぽろ』の完成で、それまでの『天空の城ラピュタ』(1986)、『となりのトトロ』、『火垂るの墓』(1988)、『魔女の宅急便』を含めて、ほぼ全世代向けの作品を一通りやりきったことで区切りを迎えてしまい、次作の企画を模索している最中だった。宮崎監督曰く、“崖っぷち”だったという。そんな中で監督自身は小品(の予定だった)『紅の豚』を作ることを“リハビリ”と呼び、企画書を作っている段階でも半分冗談であったともいわれている。

 その冗談半分は「紅の豚メモ 演出覚書」にうかがえる。

 “国際便の疲れきったビジネスマンたちの、酸欠で一段と鈍くなった頭でも楽しめる作品、それが「紅の豚」である。少年少女たちや、おばさまたちにもたのしめる作品でなければならないが、まずもって、この作品が「疲れて脳細胞が豆腐になった中年男のための、マンガ映画」であることを忘れてはならない。”

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 と、かなり肩の力を抜いたリラックスしたものとして『紅の豚』の企画はスタートしている。

 宮崎監督もまさか豚が赤い飛行機に乗って空中戦を繰り広げるような企画にJAL側がOKを出すはずがないと踏んでいたらしく、ダメ元でかなりノーテンキに企画書を書いていたようである。

 

 しかしそこは宮崎作品である。80年代から90年代という時代はソビエト連邦の崩壊と湾岸戦争、ユーゴスラビア紛争が起き、世界情勢の大きな変化が『紅の豚』の作品に、そして監督自身に影を落としていった。

 とくに製作中の1991年に起こった民族紛争であるユーゴスラビア紛争は監督にとって「しんどかった」らしく、理想としていた近代ヨーロッパが先の戦争にまったく懲りていなかったことや、前時代的なイデオロギーや民族主義が再び台頭してきたことはかなり堪えたという。

『紅の豚』の舞台はイタリア半島と、問題のユーゴスラビアがあるバルカン半島に挟まれたアドリア海なのである。当時の世界情勢から考えてそんなところで豚が赤い飛行艇に乗って空中戦を繰り広げるノーテンキな活劇など宮崎監督には製作できるはずはなかっただろう。

絵コンテになかった「そういうことはな、人間同士でやんな」

 劇中、ポルコが銀行でお金をおろしたときに行員から「いかがでしょう、愛国債券などをお求めになって民族に貢献されてみては」と勧誘されるシーンがある。映画では「そういうことはな、人間同士でやんな」とポルコは返すが、実は絵コンテの段階でそのようなセリフはない。

 この完成した映画と絵コンテとの違いから、このポルコのセリフの変更は『紅の豚』の製作が進むにつれて変わりゆく実際の世界情勢への、監督自身の辛辣な言葉なのではないだろうか。

 

 また、ホテル・アドリアーノでジーナが歌う『さくらんぼの実る頃』(冒頭でもポルコの隠れ家のラジオから聞えてくる)のシャンソンは、挫折した1871年のパリコミューンへのレクイエムでもあることから、本作は監督の中年の危機を投影しただけでなく、宮崎駿監督の思想的な面でもとてもパーソナルな作品であるといえる。