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22歳で家を出るまで、とにかく自信がなかった

――殴られることもあったと聞くと、虐待のように感じますが、ご本人としてはどう捉えているのでしょう。

鈴村 自分では違うと思っています。優しい面もありましたから、苛烈な虐待を受けていた人からしたら、生ぬるく思えるのではないでしょうか。

――それだけ大事にされた印象も強い、ということでしょうか。当時の鈴村さんは、どんな性格だったのですか。

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「毒親だけど、愛されたかった」 KADOKAWA

鈴村 22歳で家を出るまで、とにかく自信がなかった気がします。母やきょうだいの顔色を窺い、家族のために好きでもない仕事でお金を稼いでいましたから。

 自信が持てるようになったのは、家を出て似顔絵師の仕事に就いてから。似顔絵師になるには入社試験があったのですが、美大や専門学校卒の人がいる中で4位の成績で合格できたんです。絵を専門に学んだわけではないけれど、「自分ってやればできるんだ」と思えた大きなきっかけでした。

両親の離婚で、父をひとりぼっちにした「罪悪感」

――鈴村さんは下に3人のきょうだいがいて、世話をよく焼いたそうですね。

鈴村 母の手が回らないので、きょうだいの食事にお風呂、寝かしつけまで担当していました。一番下の妹は、私のことを「ママ」って呼んでいたんです。きょうだいにとっての「第二の母」だったんですよね。もう子どもではいられない自覚が、幼心にありました。

 一番大変だったのは、小学1年生の頃に一番下の妹をおんぶ紐で背負って、保育園までほかのきょうだいを迎えに行くことでした。当時の家は山の上にあって、自宅から保育園まで、およそ2キロの坂道を行き来していたんです。

ーー小学1年生には体力的にもつらい生活ですね。

鈴村 そうなんです。22歳で家を出るまで、ずっときょうだいの面倒を見てきました。

 

 その後、両親は小学2年生の頃に離婚。当時の父には借金があって、小学校入学前には夜逃げしたこともありました。結果として、母が私たち子どもを引き取ったんです。

 両親の離婚はショックでしたけど、私は父が一人になってしまう方が心配でした。父はたびたび家族を遊園地に連れて行ってくれましたし、きょうだいに見つからないようにアイスをこっそり分けてくれました。そういう面も知っているから、子どもながらに父を見捨てるようで罪悪感に満たされましたね。

 父とはその後、私が20歳で再会するまで、会うことはありませんでした。