母の代わりにきょうだいの世話をし、母の恋人からは厳しいしつけを受けた――。漫画家自身の体験をもとにした「毒親だけど、愛されたかった」(KADOKAWA)では、母から受けたネグレクトと、家族の崩壊、離別から再会への軌跡を描く。作者の鈴村五月さんに、母が毒親だと気が付いたきっかけについて聞いた。(全2回の1回目。後編を読む)
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幼少期の母「誰のおかげで飯が食えると思っているんだ」
――お母さんが毒親だと認識したのは、いつ頃ですか?
鈴村 普通の家庭と違うことを自覚したのは、大人になってからでした。きっかけは、当時恋人だった夫に指摘されたこと。それから毒親育ちの子どもについて調べて、自分との共通点に気が付いたんです。具体的には、自分発信のコミュニケーションが極端に苦手だったり、「どこにいきたい」、「何が食べたい」という欲望がなくて、自分で何かを決めるのが苦手だったりーー。それから意識するようになりました。
母は父と離婚して、恋人とも別れた後、いろんな男性と関係を持つようになり、最終的に家へ帰ってこなくなりました。育児放棄をして、ネグレクトの状態になったんです。
――幼いころはどういう親子関係だったんですか?
鈴村 幼稚園の頃までは普通の親子関係でしたね。今でいうキャラ弁に近い手の込んだお弁当を毎日作ってくれました。かわいくて、とってもうれしかったです。
母にとって、手作りのお弁当は愛情表現のひとつでした。というのも、母自身も親からネグレクトを受けていて、お弁当を食べるときには恥ずかしい思いをしたそうなんです。だから自分がしてもらえなかった分、わが子にはしてあげたい。小学校の運動会などでは、頑張ってくれました。
ーー優しいお母さんですね。遊ぶこともよくあったんですか?
鈴村 一緒に遊んだ記憶はあまりありませんね。専業主婦でしたが、私を含めて子どもが4人いたので、いつも時間に追われていました。
お弁当を作る優しい面もありましたが、怒ると怖くて、一度キレると手が付けられないほど。ほとんどヒステリーに近い有様でした。自分の苛立ちを子どもにぶつけて、「ふざけんな」、「誰のおかげで飯が食えると思っているんだ」と暴言の嵐。言葉だけでなく、手と足も出るタイプで、人から見えない場所に年に1度は青あざを作りました。
怒るきっかけは幅広くて、怒られて当然だと思うものもあれば、些細なこともありました。印象に残っているのは、私だけ早く眠るときに自分の分しか布団を敷かなくて怒られたことです。母の地雷がどこにあるのかわからず、よく顔色を窺っていました。