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処世術の肝は上司への「忠誠心」

 ただし、プーチンがコネだけで出世したと考えるべきでもないだろう。公務員としては平凡であった彼だが、官僚としての実務能力はかなり高かったはずだ。

 2000年に大統領になって以降のプーチンは毎年のように、テレビの生番組「国民との対話」や「大記者会見」を行っている。かなりの質問内容が事前に準備されているとはいえ、メモをほとんど見ることなく、あらゆる分野の質問に何時間も答え続けるのは並大抵のことでない。「地頭」の良さは主要国首脳の中でも際立っていたといえる。

第2回日露首脳会談でのプーチン大統領 ©文藝春秋

 それに加えてプーチンの出世を助けたのが、上司への「忠誠心」を惜しみなく見せた処世術だ。典型的なのは、FSB長官だった1999年、窮地に陥っていたエリツィン大統領を救ったエピソードだろう。

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 当時のエリツィンは、対立するプリマコフ首相の意を受けた検察当局の汚職捜査で追い詰められていた。そんなときに国営テレビが1本の隠し撮りビデオを放映した。

 このビデオには、スクラートフ検事総長によく似た男が、売春婦とされる全裸の女性2人と映っていた。プーチンはこのビデオを「本物だ」とする「鑑定結果」を発表し、スクラートフの息の根を止めたのだった。

 このビデオが撮影された経緯や、映っていたのが本当にスクラートフだったのかは謎である。いずれにせよ、プーチンはこの一件により、後継者を探しあぐねていたエリツィンの眼鏡にかなったと考えられている。

右に座る当時のエリツィン大統領と(1998年) ©AFLO

 エリツィンをめぐっては、「ファミリー」と呼ばれた側近や親族の腐敗がやり玉に挙げられていた。エリツィンは、プーチンならば改革路線を定着させ、退任後の自分や親族の「安全」を保証してくれると考えた。

 プーチンは99年8月に首相に任じられ、12月にはエリツィンの電撃的辞任に伴って大統領代行となった。開戦経緯に疑惑がつきまとう第2次チェチェン紛争の陣頭指揮で人気を集め、2000年3月の大統領選で快勝した。

2001年、当時のアメリカのブッシュ大統領との記者会見 ©共同通信社

「プーチンを後継者に指名したことは大きな過ちだった」

 1990年代前半にエリツィンの懐刀だったブルブリス元国務長官は2011年、筆者のインタビューでこう語った。

「今日のロシアに出来上がったのはプーチンの個人権力体制だ。プーチンを後継者に指名したことはエリツィンの大きな過ちだった」

 ウクライナでの惨劇が止まらぬ今、とりわけ重い響きをもって蘇ってくる言葉である。