「無職」のプーチンに、今度はモスクワから声がかかり…
サプチャクが96年の市長選で落選し、プーチンも辞職を余儀なくされた。一時的に宙ぶらりんの無職状態となったが、今度はモスクワの大統領府から引きがあった。プーチンは大統領府の総務局次長から第1副長官と瞬く間に出世し、98年7月には連邦保安庁(FSB)長官に任命された。
96年にプーチンを大統領府に招き入れたのは、大統領府総務局長だったボロジンとも、レニングラード出身で大統領府長官だったチュバイスともいわれている(なお、そのチュバイスは最近、ウクライナ侵攻に抗議して国際機関担当の大統領特別代表を辞任し、ロシアから出国した)。
プーチンの急速な出世を可能にした「コネ」と「運」
これだけの急速な出世は、ロシアが「コネ社会」であるからこそ可能だった。プーチンはレニングラード市庁に入るときも大統領府に移るときも、きちんとした試験を受けたわけではなく、人からの引きだけで職を得ているのだ。
ロシアでは今もそうなのだが、学歴や能力よりも人的なつながりが就職や人事で物をいう。国家公務員の世界ですら、厳格な統一試験や体系的な業績評価は行われていない。
今日ではプーチン体制の長期化に伴って各分野の既得権益層が固定化し、「コネ社会」は若年層の不満と閉塞感につながっている。「親の七光」をはじめとするコネがなければ、能力があっても立身の道がないというわけだ。このことは近年の反プーチン政権デモで底流をなしてきた。
91年のソ連崩壊の前後やそれに続く90年代には、共産主義の秩序が一気に崩れただけに人材の流動がとりわけダイナミックだった。
新生ロシアのエリツィン政権で「ショック療法」と呼ばれた急進的市場経済化を指揮したのは、西側経済学に精通していた30代半ばのガイダール副首相だった。
98年に首相を短期間務めたキリエンコも弱冠35歳だった。反体制派に転じて2015年に暗殺されたネムツォフ元第1副首相は、1991年に32歳でニジニ・ノヴゴロド州の第1副知事になり、約6年後に第1副首相に起用された。プーチンにも、こうした時流に乗る運があったということだ。